scene5 いつかはばたくその翼

 わたしは、走っていた。
 広いろうかを。階段を。
 追い立てられて、走っていた。
 どこまで続くのかわからない。長い、ながい階段をかけあがる。
 いくらこの建物の構造を完全に理解していないわたしにだって、わかる。

 わたしは、完全に追いつめられていた。

「リマ・メルカートル。やっと追いつきましたわよ」

 長い金色の巻き毛を風になびかせて。アンジュ・ノーヴィリスは言った。
 背後にはもちろん、複数の取り巻きたちがひかえている。

 階段をあがりきった先は、校舎屋上にある時計塔のてっぺんだった。
 申し訳程度に手すりがついただけの、不安定な高所。
 時折吹き付ける強風に、気を抜くと飛ばされてしまいそうだった。

「どうしてこそこそと隠れますの?ワタクシはリマさんにお願いしたいだけですのに」
「せ、先生はアンジュさんたちに頼んだのですから、アンジュさんたちがやった方がいいと思いますよ」
「アンジュさまのお仕事は、新しいご友人であるあなたのお仕事。そんな常識もわからないの?」

 わたしの反論に返答したのは、アンジュではなく取り巻きのひとり。それにしても、言っていることがむちゃくちゃである。
 そもそもアンジュが担任教師に頼まれた教材の運搬は、魔法使いが魔力で自らの腕力を強化し、それでも三人がかりで運ぶような大仕事である。それを、頼まれたメンツが彼女およびその取り巻きであったことをいいことに、全てわたしに押し付けようとしたのだ。無理難題もいいところである。
 そんな訳で、わたしは身の危険を察知してこっそりと教室を抜け出したのだけれど、あっさりと見つかってこの状況。ということである。

「確かに、ここに来たばかりのアナタには勝手がわからないのも仕方ないことかもしれませんわね。ですが、いえ。だからこそ、ワタクシに従うべきだと思いますの」

 熱のこもった口調で語りながら、アンジュが一歩前へ出る。
 反射的に、わたしは一歩後ろへ下がる。
 後ろ手が、手すりに触れた。

 ぱちん。

 軽い音。衝撃。全身を駆け抜ける痛み。そして、浮遊感。
 あっ。と思った時には、支えを失った体がうしろに傾いていた。
 バランスを崩し、落下しそうになった私の体を、アンジュの取り巻きがすかさず放った魔法の糸がからめ取る。
 視界の隅で、手すりがはるか下の校庭にたたきつけられ、砕けたのが見えた。
 ぞっとする。
 わたしの足は半分宙に浮いた状態で、つま先だけがかろうじて地面を捉えている。上体は完全に時計塔から飛び出していて、魔法の糸で支えられているだけだ。
 いつでも、あの手すりと同じ運命をたどる可能性がある。
 青ざめるわたしを見て、アンジュがくすりと笑う。

「この塔にはワタクシの電気が回っていますから、うかつに触れては危険ですわよ。お気をつけなさいな」
「……っ」

 恐怖で、言葉も出ない。
 彼女らのさじ加減ひとつで、わたしは死ぬかもしれない。
 いや。
 いっそ、死んでしまった方が楽かもしれない。

「さて、どうしましょうか」

 アンジュの声が、とても遠く聞こえた。
 もう、どうでもいい。だけど、痛いのは。苦しいのは、怖い。
 強く、目をつむる。

「アンジュ。やりすぎだぞ」

 その声は唐突に。だけど、見計らったかのようにちょうど良いタイミングで響いた。
 予想外のセリフに、わたしは恐怖も忘れて目をぱちくりさせる。
 アンジュも。その取り巻きたちも。驚いたように声の方に視線を向ける。
 ほとんど身動きの取れないわたしから、その姿を確認することはできない。だけど、少し慌てたようなアンジュの言葉で、何者かは理解できた。

「ルベル。どうしてここに」

 ルベル・ユースティティア。燃えるような赤毛が印象的な男子学生で、見た目通り炎の魔法を得意としている。アンジュと同じく代々高位の魔導士である貴族の名家の生まれであり、もちろんその魔力もアンジュに負けず劣らず強い。その一方で、アンジュとは対照的にいつもひとり。教室のはしっこてつまらなさそうに外の風景を眺めていることが多い印象がある。

「時計塔の時間が狂っていたから、気になって来てみただけだ」

 ルベルは、いたって冷静な調子で言った。

「まったく。手すりが落ちたのを見て驚いたぞ。取り返しのつかないことになる前にやめておけ」
「何をおっしゃいますの、ルベル。ワタクシはこの子のためを思ってやっておりますのよ」

 対するアンジュは、やや冷静さを失った口調で返す。

「本当にそう思っているか?きちんと自分の頭で考えているか?」
「ワタクシが何も考えていないと。そうおっしゃりたいの?」

 二人の言い争いに、取り巻きたちもあっけにとられた様子で見つめている。
 もしかしたら、今が抜け出すチャンスなのではないだろうか。
 そう思ったわたしは、そっと自分の体を拘束している糸をたどった。
 案の定、魔法の糸を制御していた二人も困ったようにそのやりとりを見つめていて。わたしが、不安定な体勢を立て直していることに気付いた様子はなかった。
 無事に安定した地面に戻ったわたしは、ほっとその場に座り込む。
 そこでようやく、魔法の糸を制御していた二人組がわたしに気が付いたようだった。だけど、アンジュからの指示がないからか、何もとがめられることはなかった。

 一方。
 その間にも、アンジュとルベルのやり取りは、さらにエスカレートしていた。

「だいたい、アナタはいつも不干渉じゃない。それだけの魔力がありながら派閥を作るわけでもなし、上を目指すわけでもなし。なのに、こんなところだけ格好つけてでしゃばって。そんなにこの子のことが気になるの?」
「そうじゃねえよ。お前、少し冷静になれ」
「ワタクシはいつだって冷静ですわ」
「どこがだよ。今のお前にはいつもの誇りを感じられない。何にこだわっているんだ」
「うるさいっ。アナタには、わかりませんわっ!」

 アンジュが叫んだ途端、時計塔が大きく揺れた。
 あちこちに小さな電撃が走り、運悪く当たった者が悲鳴を上げる。
 パニック状態になった取り巻きたちが、我先にと時計塔をおりていく。

「おい、危ないだろう」
「知りませんわ」

 ルベルの言葉に、なおも激高するアンジュ。同時に電撃がルベルを襲うが、とっさに出現させた炎の膜を前に霧散する。
 そんな攻防が、どのくらい続いただろうか。

「うわっ」

 叫び声とともに、ルベルの体が吹き飛ばされた。
 わたしの方に向かって。
 わたしのうしろは、何もなくて。
 着地するための床も。体を受け止めるための柵すらもない。

 危ない!

 そう思ったわたしは。
 とっさに、ルベルの腕をつかんでいた。

 次の瞬間。
 わたしの視界は、大きく開けた。

 時計塔と、そこに立つアンジュの青ざめた表情を一瞬だけとらえ、すぐにそれらは小さくなっていく。
 そして。
 落下。

「きゃああああああ!」

 訳も分からず、悲鳴を上げる。

「っ。暴れるな。死ぬぞ」

 引き寄せられる感覚。耳元に響く低い声。
 それでようやく、ルベルがわたしを抱きかかえていることに気が付く。同時に、ルベルが右手を下へかざし、落下にあらがうために魔力を行使していることにも。
 だけど。

「俺の魔力じゃ、二人分は無理か」

 そう。落下の勢いは、全くおとろえていなかった。
 このままでは、二人とも校庭へたたきつけられてしまう。ルベルの全身から、じっとりと汗がにじんでいるのがわかった。

「わたしを、捨てて」

 わたしは、かすれた声でうったえた。
 一人ならなんとかなるであろうことは、ルベルの言葉から容易に想像がつく。
 それなのに。
 わたしは余計な手出しをして、結果的にルベルのかせになってしまった。
 こんなことなら、ここで捨ててもらった方がいい。

「ばかっ。それじゃあ、俺が格好つかないだろ」

 ルベルが、いっそう強くわたしの体を抱きしめて、怒る。

「お前、いいやつだからな。そんなやつ、助けたくなるに決まっているだろう」

 わたしは、ふと気が付いた。
 ルベルは、自分が下になってわたしを助けるつもりだ。
 わたしには、そんな価値なんてないのに。
 わたしは、ルベルが言うようなそんないいやつなんかじゃない。
 だって、この事態は全てわたしのせいだから。
 わたしが、アンジュから逃げ出さなければ。
 時計塔の上なんかに逃げ込まなければ。
 もっと自分がちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった。

 だから。

「たすかって……」

 わたしは、ルベルの左手に自らの右手をそえて祈った。
 助かって、ルベルにお礼を言いたい。
 助かって、アンジュと向き合いたい。
 だからわたしたちは、ふたりとも無事でいないとだめなんだ。

 その瞬間。
 何が起こったのか。わたしにはすぐに理解できなかった。

「え」

 思わず、声を上げる。
 わたしたちの、落下速度が落ちていた。
 ルベルの魔法の出力が上がっていた。先ほどの倍くらいに。

「なにが……起こったんだ?」

 ルベル自身にも、何が起こったのか理解できなかったのか。驚いたようにつぶやく。

 そうして。
 わたしはルベルに抱きかかえられたまま、舞い落ちる羽根のようにふわりと校庭に着地した。

「助かった……みたいだな」

 わたしから手を離し、ルベルが言った。

「ありがとう。助けてくれて。魔法、すごかった」

 わたしは、片言のようにルベルに礼をのべることしかできなかった。
 まだ、落下時の浮遊感が抜けきらない。体が、ふわふわする。

 次の瞬間。
 不意に、わたしたちはまぶしい光に包まれた。

「えっ、なに?」

 突然のことに、戸惑う。

「指輪が」

 ルベルが、自分の右手を見てつぶやく。
 燃えるような赤い石がはまっているはずのルベルの指輪。それが、その色が見えないほどに白く、まぶしく光っていた。
 まるで、入学式のあの時のように。

「リマ。君のも」

 ルベルに指摘されて初めて、わたしの指輪も光を放っていることに気が付いた。
 一体、何が起こっているのだろう。
 光は、しばらくあたりを照らし。そして、唐突に消えた。
 そのあとに残ったのは。

「指輪の形が変わった……」

 ルベルが右手をかざし、つぶやく。
 見ると、彼の指輪は、赤く輝く石はそのままに、わたしが以前見た彼の指輪よりほんの少しだけ複雑な形のものになっていた。

 と。

「ルベル・ユースティティア、リマ・メルカートル。何事ですか!」

 怒鳴るような甲高い声に、わたしも、ルベルも振り返る。
 担任教師が、鬼のような形相でこちらに向かってつかつかと歩いて来ていた。
 その後方には、おそらく騒ぎを聞きつけて集まってきた人たち。
 学生会副会長であるユキネ先輩や、急いで下りてきたのだろうアンジュとその取り巻きの姿も見える。
 何かを言おうとするルベルを制して、わたしは声を上げた。

「ごめんなさい。時計塔が珍しくて、遊んでいたらうっかり足を滑らせてしまって。ルベルさんに助けてもらいました」

 わたしの言葉に、アンジュの表情が変わったのが見えた。
 同時に、さらにその後方に学園長が立っているのに気が付く。そして、その隣に立っている……。
 そこで、急速に。わたしの意識は遠のいた。

「リマっ!」

 意識を失う直前。
 懐かしい声が、わたしの名前を呼んだ。気がした。