※1996年に発表した作品を大幅に加筆修正したものです。
控え室を出たあたしの目の前に、一輪の小さな野花が差し出された。
「え…あたし…に?」
驚いて尋ねると、野花の差し出し主は黙ったままこくりと頷いた。
あたしと同じくらいの年頃の男の子。短い茶髪に、小柄。あたしより背が低い。ぶっきらぼうな表情で、なかなか目を合わせようとしないが、それでもしっかりとあたしの前に花を突きつけてくる。
「えと…ありがとう…」
戸惑いながらも、素直にその花に手を伸ばす。
その時、男の子のうしろから声が上がった。
「ラーツェン!こんな所でなにやってんだよ。早く行かないと、せっかくのお祭りがすぐ終わっちゃうよ?」
透き通った高い声に、ラーツェンと呼ばれた目の前の男の子は、慌てたように花を持ったまま後ろを振り返った。あたしも、ラーツェンの背中越しにその姿を見る。
声の主も、同じくらいの年頃の男の子だった。ただし、柔らかく長い銀青色の髪に大きな青い瞳をしていて、目の前にいるラーツェンとは対照的な、女の子と間違えそうな程綺麗な容貌と物腰をしていた。
「面白い出店を見つけたんだ、行こうよ」
愛らしい顔を紅潮させて、ラーツェンの腕を引っ張る。お祭への興奮のためか、あたしの存在には気が付いていないようだ。
「ちょっ…ロイド、待てよ」
腕を引っ張られて、声を上げるラーツェン。
しかし、押しの強い友人に逆らえないのか、そのまま引き摺られていく。申し訳なさそうに、一瞬だけこっちを見た。が、そのまま去って行っちゃった。
花…貰い損ねちゃったな。
二つの後ろ姿が見えなくなった廊下を、ぼうっと眺めていると、背後からあたしを呼ぶ声がした。
「ティス、どしたのー?お祭りいかないのー?」
あたしの相棒のセレシアだ。隣にはすっかり外出の支度を終えた踊りの師匠のアフィラが立っている。
「行く、行くよー」
あたしは慌てて言葉を返す。
こうして、あたし達はお祭で賑わう街へ出かけた。
あたしとセレシアはこの劇場に拾われた。
劇場の入口に、篭に入れて捨てられていたらしい。と聞いたのは最近の話だ。
そんな訳で、出身も肉親も不明のあたし達だけど、劇場の人達は本当の家族のように可愛がってくれた。
あたしとセレシアは、同じ日に同じ場所に捨てられていたが、血のつながりはないらしい。実際、煌く紫色の髪をしたセレシアとただの黒髪のあたしは全然似ていない。それでも、あたしとセレシアは本当の姉妹のように仲がいいと思っているし、世話になっている劇場のために何かしたいと踊りの勉強を始めたのも同じ時期である。
そして今日、八歳にしてついにこのお祭りの公演の前座として初舞台を飾った。
緊張したが、なんとか初舞台を終えたあたし達を、アフィラがごほうびにと祭見物に誘ってくれた。
今まで、夜のお祭りはあぶないからという理由でいつも劇場でお留守番だったあたし達は、喜んでその誘いに乗ったのである。
「わあ…すごーい」
セレシアが歓声を上げて喜ぶ。あたしは、驚きのあまり言葉を失っていた。
見慣れた街並みに、所狭しと露天が並び、大勢の人々がひしめき合うように露天を見物している。まるで別世界に迷い込んだようだ。
「二人とも、はぐれないように気をつけるんだよ」
アフィラの注意も、はしゃぐあたし達の耳には入っていなかったかもしれない。
「ティス!見てみて!あのお人形、可愛い」
「本当、素敵ね」
夢中で露天に駆け寄るあたし達に、アフィラはやれやれといった感じで付いて来ていた。
それから、あたしとセレシアはたくさんの露天を回り、色々な物を見て、アフィラを拝み倒してクレープをごちそうしてもらったりした。
お祭りのにぎやかな空気に触れて、あたしは浮かれて気が緩んでいたんだと思う。
いつの間にか、あたしは一人で歩いていた。
「あ…あれ…?」
きょろきょろと辺りを見回すけど、セレシアの綺麗な紫の髪も、アフィラの見事な赤い巻き毛も見あたらない。完全にはぐれてしまったらしい。
「どうしよう…」
いつもの街並みなら、簡単に劇場に帰れただろう。だけど、今日ばかりは勝手が違う。どっちの方向に歩けば劇場に帰れるのかも、皆目検討がつかなかった。周りを歩くのは知らない大人ばかり。あたしは、急に怖くなってきた。
慌てていると、不意に何かにぶつかる。
「おや、お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
頭上から声がする。見上げると、大きな男の人がいた。
「あ…」
後で思うと、男の人は悪意があった訳ではなかったと思う。だけど、元々人見知りする上混乱していたあたしの目には、屈強な男の人はとても恐ろしく映った。
「や…っ、いやぁー」
たまらなくなって、あたしは駆け出していた。
右も左も、前も後ろも分からず、とにかく走ったから、当然色々な人にぶつかった。そして、色々な人の声が入ってきた。
「いってーな。どこ見て歩いてんだよ」
「どうしたの?お母さんは?」
「あ?今なんかぶつかったぞ」
止めて
やめて
ヤメテ!
人の声なんか聞きたくない。
ひとりにさせて。
いつの間にか、辺りは静かになっていた。
無我夢中で走ってるうちに、街の外へ出ていたらしい。
遠くから風に乗って、かすかにお祭りの喧騒が聞こえてくる。
劇場からは反対方向に出てしまったようだったが、あたしには、再びあの中を通り抜けてまで劇場に帰るという気にはなれなかった。
「ラーツェン…か…」
星空を見上げ、その名前を呟く。
つっけんどんに花を差し出してきた、あの男の子のことが忘れられなかった。
あの子は、今頃連れと一緒にあの街の中でお祭りを楽しんでいるのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えていたその時、
がさっ…
何かが草を踏む音に、振り向く。あたしの目の前にいたのは、一匹の人型をした魔物。ゴブリンと呼ばれる種だ。成人男性より小柄で下等な部類に入る魔物と言われているが、子供のあたしから見たら、そいつは十分驚異だ。
「!!」
立ち尽くしたまま、声を上げる事すらできない。そんなあたしに向かって、ゴブリンが跳躍した。
殺される…!
あたしは、ぎゅっと目をつぶった。
「ギャッ」
次の瞬間、短い悲鳴が上がった。
悲鳴は、あたしの物ではなかった。そして、覚悟していた衝撃はこなかった。
あたしは、助かったのだろうか?
恐る恐る目を開ける。
目の前に、うつぶせに倒れているゴブリン。その首筋に短剣が刺さっている。上手く急所に入ったらしく、ゴブリンはぴくりとも動く様子がない。
「大丈夫か?」
声と共に、小さい影が駆け寄ってくる。
その姿に、見覚えがあった。
「ラーツェン…」
そう、それは確かにあたしがさっきまで考えていた人物。ラーツェンであった。
「あ?俺の名前知ってたんだ」
「あなたを迎えに来た人がそう呼んでたから…」
至近距離で目が合う。その瞬間、ラーツェンがくくっと笑い出した。突然の事に、どう反応していいか困るあたしに、ラーツェンは懐から布を取り出して手渡してきた。
「顔、拭いた方がいいぜ」
「?」
不思議に思いながらも、素直に渡された布で顔を拭いた。拭き終わった布に、どす黒い液体が付着していた。
「!!」
考えるまでもない。ゴブリンの血だ。あたしは、完全にパニック状態に陥っていた。
「落ち着いたか?」
目の前に、男の子の顔があった。さらりとした短い茶髪で、心配そうな表情を浮かべている。
誰だっけ、この子…
まだ少し混乱したままのあたしの前に、一輪の花が差し出された。
「これ…渡しそびれちゃったから…」
ああ、そうか…確かラーツェンとかいう…
「ありがとう」
今度こそ、あたしはしっかりと花を受け取った。
「お前の踊り、すっごく好きだぜ」
ラーツェンは恥ずかしそうに言うと、逃げるように去っていった。
後に残されたのは、一輪の花とあたしだけ。
「ラーツェン…あたし…今日の事忘れないよ…」
花を見つめ、呟く。たった一輪の小さな赤い野花。ここに来るまでポケットにでも入れておいたのか、ずいぶんとしおれている。だけど、あたしにとっては何よりも特別な贈り物だった。その小さな花に込められた想いが、とても嬉しかった。
もう一度、また会えるかな?
きっとまた会える。あたしには、そんな気がした。
「ティスー!」
遠くから、あたしを呼ぶ声がした。セレシアの声だ。
「やれやれ、探したんだよ。こんな所まで来てるなんて、最近は街の近くも物騒なんだからね」
セレシアの隣に、アフィラの姿もある。
「心配かけてごめん」
二人に手を振って駆け寄る。
その時、大きな音を響かせて花火が上がった。
祭もそろそろ終盤だ。