エアの先輩に当たる受付嬢に一方的に後のことを任せて、三人は大陸警備機構本部を出た。
追跡の魔法を使用するウリルの先導で街を走り、たどり着いた場所は閑静な住宅街の一角。
地下水路はセントラルシティの地下隅々まで張り巡らされており、入口も街の至る所にある。犯罪の温床になるのを防ぐため、普段は大陸警備機構が管理を行っている。当然一般人の立ち入りは禁止であり、入口はしっかりと施錠されている。はずである。
地下水路の入口になる鉄格子の前に立つ。一同の表情は、自然と険しいものになっていた。
鉄格子の扉は、わずかに開いていた。かかっているはずの錠前は外され、地面に転がっている。そして鉄格子には、べったりと赤黒いものが付着していた。ネアロがここを通ったのは間違いない。
血の付いていない部分を選んで鉄格子の扉を引き開けて中に入ってから、転がっていた錠前をかけておく。奥に入ると地下へ続く梯子があり、そこを降りれば地下水路だ。
梯子のある部分は日の光が差し込んでいるため手元くらいは視認できるが、下に降りきってしまうと辺りは真っ暗になる。魔法による光の球を作り、宙へ浮かべるウリルが先頭に立ち先へ進む。
照らし出されるのは、石造りの壁と天井。狭い通路と、その横を流れる水。地下水路といっても、流れているのは生活排水。下水である。特有の湿った臭気が辺りを漂い、決して気持ちのいいものではない。
ウリルの足が止まったのは、入口からそんなに遠くない場所であった。
ここが、例の現場だということは、言われなくてもわかった。
下水の臭気に混じって、明らかに濃い血の臭いが立ちこめている。ウリルの視線の先を見ると、壁面に血の痕がべったりと残っていた。
ここで、ロキシス達は「何か」に襲われた。ネアロは手傷を負い、ロキシスは行方不明になった……。
凄惨な光景に、夢幻はエアを心配しその横顔をちらりと見る。顔色があまり良くないように見えるのは、けっして薄暗いせいだけではないだろう。しかし、夢幻と目が合ったエアは「大丈夫」と気丈に頷いた。
「ここから先は私の魔法も役に立たないわ」
一応、何種類か魔法を試みたらしいウリルが口を開く。
「ここまで来れただけでも十分だ。少しここを調べてみる。ウリルはエアと一緒に休んでいてくれ」
夢幻はそう返して、一人で辺りを調べ始めた。
一番目立つのは、やはり壁の血痕であろう。
壁にべったりと張り付き、床にも広がっている。恐らくこれはネアロのものだ。弾き飛ばされて、ここに叩きつけられたのだろう。ひとまずその周囲を見回すと、何かが視界の隅できらりと光った。
「カンテラか」
転がっていたのは、灯が消えてフレームもひしゃげたカンテラであった。冒険者向けに量産されているもので、丈夫なため大陸警備機構内でも配布されている。二人一組で行動する場合、灯りを持つのは後輩の役目である。これはネアロが持っていたと思って間違いない。
あとは……
必死に目を凝らして地面を、壁面を見つめる。何も見つからない。壁面の血痕以外、何も見つからない。
手がかりはないのか。
「夢幻さん」
尚も地面に這いつくばって手がかりを探す夢幻に声がかけられた。
エアが、何かを指差している。夢幻のいる方とは反対側、やや広めの通路の床である。
「どうした?」
聞きながらエアの指差す場所を見る。今いる場所からは距離が遠く、よくわからない。必然的に、夢幻が血痕のある場所から移動することになる。
しかし。
「これは……!」
それは、近くまで寄って初めてわかるほど些細なものであった。黒い汚れが、点状にぽつんと付いている。一見、ただの水滴による汚れだろうと見過ごしてしまうその一点の正体を、夢幻は過去の経験から確信した。これは血痕だ。
「よく見つけたな」
エアにしてみれば偶然だっただろうが、大きな功績である。壁面の血痕からはかなり距離が離れているため、夢幻一人だったらこれを見つけるのに相当時間がかかったはずだ。
その小さな血痕だが、よく見ると歪な形をしていた。滴り落ちたものではなく、どこかから方向性を持って飛んできたものだ。飛んできた方向を推測し、そちらの地面も調べる。
かくして、少し進んだ先にも同じ様な血痕があった。
向かう方向は決まった。
「エアのおかげで方角が定まった。行くぞ」
夢幻は待機していた二人に声をかけて、先頭に立ち歩き出す。歩きながら、夢幻は誰にともなく呟いた。
「恐らく、ここからが本番だな」
どのくらい歩いただろうか。
地下水路は、とにかく静かであった。一同はただ無言で歩き、その足音が大きく反響する。
夢幻は苛立っていた。
ある程度の間隔を置いて、小さな血痕は途切れることなく続いている。そして先程、一振りの長剣が落ちているのを見つけた。間違いなく、ロキシスの物だ。
だが、その後は何かの気配はおろか通報があったという例の怪しげな音も聞こえない。
今こうしている間にも、ロキシスの命が削られていっていることは間違いないというのに。一向に追いつけない。
もしかしたらもう……
「ロキ……っ」
最悪の事態を想像し、夢幻は自然と強く唇を噛み締めていた。
「夢幻さん」
夢幻の背中を見つめ、エアが不安げに呟く。
夢幻の歩くペースはかなり早い。魔力で補強しているウリルのサポートを受けているものの、エアはかなり無理をしていた。息が上がり、足がもつれる。
「!」
大きくバランスを崩し、転倒しかけるエアの身体をウリルが支える。
さすがに見かねて、ウリルが大きめの声で呼び止める。
「夢幻ちゃん。ちょっと」
しかし夢幻の足は止まらない。その間にも、距離が離されていく。
無視された。そう判断したウリルは、即座に魔法を放った。瞬間詠唱により発動した光の球が、ものすごい勢いで夢幻のすぐ脇を通り、前方の水路に落ちて炸裂した。眩しさと共に、衝撃に汚水が舞い上がる。さすがに、夢幻の足が止まった。
「ウリル!何をするんだ」
振り返り、怒鳴りつける。
「呼びかけても止まらないからよ」
「止まってたら追いつけないだろ。それとも何か名案があるのか?」
詰め寄る。
それでもウリルは、冷静さを失わない。冷めた声で、ぴしゃりと言い放つ。
「少し冷静になって。これだけ歩いて追いつかないのよ。闇雲に走っても無駄よ」
「じゃあどうしろというんだ!」
夢幻の怒鳴り声が、地下水路に響き渡った。
びくりと身をすくめるエア。ウリルは、何かを言い返すでもなく真っ直ぐに夢幻の紫水晶の瞳をのぞき込むように見つめた。
どのくらいの間、そうしていただろうか。
「……悪かった」
やがて、夢幻はぽつりと呟いた。
「落ち着いたかしら?」
ウリルの問いかけに、夢幻はバツが悪そうに頷いた。
「手間をかけさせたな」
「休憩しましょう。作戦会議も兼ねてね」
通路に三人並んで腰掛けて、状況を整理していく。
「ひとつ確実なこと。血痕は途切れずに続いている。つまり、そいつがここを通ったのは間違いない」
ウリルはそう言って、目の前の床を指差した。そこには、小さい血痕が確かに残っている。
「ネアロの話から推測すると、そいつは相当なスピードで走り抜けた。そして、落ちている血痕の形から判断すると」
「そのままのスピードで走り続けてる……ってことか」
言葉を繋ぐ夢幻に、ウリルは頷く。
「このまま追いかけて、追いつけるとは思えないわ。先回りできればいいのだけれど、この広い地下水路内では厳しいわね」
「手だてなしってことか……」
夢幻がうなだれる。
しかしウリルは、いつも通りの軽い口調で話を続けた。
「私だって、諦めているわけではないわ。はい、これ」
物体転送の魔法で手元に取り出し、夢幻に手渡したのは紺色の大きな布。それが何かは、夢幻にはすぐにわかった。自分の愛用しているフード付きローブだ。夢幻が旅に出る時はいつもこのローブを、袖を通さずに留めてマント代わりにしている。
「形だけでも馴染みのある物を身に付けたら、少しは妙案でも浮かぶのではない?」
そんなことで上手く事が運べば苦労しないだろう。そう思ったが、せっかくなので夢幻は受け取ったローブを身に付ける。着ている服が濃紺の制服であるため、紺色のローブとの組合せはお世辞にも合うとはいえない。しかし、着慣れたそれは確かに夢幻の気合いを高めてくれる。
「血痕の続いていない道も含めて探してみよう。いくら広いとはいえ、予想できるヤツのスピードを考えるといつまでも直進できるほど道は長くない。きっとどこかで折り返しているはずだ」
振り返り、後ろにいる二人に声をかける。二人ともすでに立ち上がっていて、力強く頷き返してくれる。
その時。
夢幻の耳が異音を捉えた。
微かに、だが確かに、水音とは違う。ぶーん。という低い音。
どこから?
そんなこと、考える間もなかった。
音はものすごい勢いで近く、大きくなり、突如、それは夢幻の目の前に現れた。
次の瞬間、夢幻の身体は何かに引っかけられそのまま地下水路を爆走していた。
「うわ、うわ、うわーっ」
夢幻は叫び声を上げながら振り落とされないよう、必死にそれにしがみついた。
手探りで安定しそうな場所を探し、辛うじてそこに身体を潜り込ませる。
スピードには慣れてきたところで、ようやく辺りの状況を確認するために顔を上げる。
ウリルとエアの気配はない。どうやら引っかけられたのは夢幻だけらしい。ウリルの作った灯り用の光球だけが、どういう細工をしたのか夢幻に付いて来て辺りをふよふよと漂っている。
そして、光球の光に照らされて、そいつの姿が露わになった。
「なんだ、こいつは……」
思わず、声に出して呟く。
水路いっぱいを塞ぐほどの緑色の巨体。ぎょろりとした複眼と三角形の頭。掲げられた鋭利な鎌状の両手。それはまさに。
「なんでカマキリがこんなところにいるんだよ」
巨大なカマキリそのものであった。
魔物は、動植物が変異を遂げることにより成ったもの。そう言われている。だから、カマキリ型の魔物が存在すること自体は不自然ではない。だが、こんな下水の流れる地下水路に爆走するカマキリとは、なんとも不自然である。
カマキリは、水路からわずかに浮いたところを低空飛行している。その図体は狭い地下水路にギリギリ収まるほどで、高く掲げられた両腕のカマは天井をこすりそうである。
その、右のカマに「何か」がぶら下がっていた。
それは、黒っぽい布きれのように見えた。だが、浮遊する光球の光を受けて、何かが金色に煌めく。それが金髪の頭だということに気が付くのにそう時間はかからなかった。よく見れば、手足も視認できる。見間違いようもない。紛れもなく、それは。
「ロキ!」
夢幻は、できる限りの大声で親友の名を呼びかけた。
ロキシスは、腹部をカマにめり込ませた状態でくの字に折れ曲がってぶら下がっていた。夢幻の呼び掛けに対して返事を返すどころか、ぴくりとも動く気配なくぐったりとしている。鮮血に濡れるカマから、赤い雫が一滴飛び散った。
生きているかどうか。それすらすでに怪しい。
しかし……
「待ってろ!今助ける!」
夢幻は叫び、手足を動かす。親友の元へたどり着こうと、関節の部分に手をかけよじ登る。カマキリが疾駆することにより生じる風にあおられ、飛ばされそうになる。
それでも夢幻は諦めなかった。
故郷を出て右も左もわからなかった夢幻に対して、戸惑いながらも助けてくれたのはロキシスだった。大陸警備機構に入って、夢幻が冒険者になることが決まった時も、訓練に付き合ってくれた。ロキシスの笑顔が、想いがフラッシュバックする。
失いたくない。諦めたくない。
「……ちゃん。夢幻ちゃん」
だから、必死にカマキリの身体をよじ登る夢幻の耳にその言葉が入るのに、ずいぶん時間がかかった。
「夢幻ちゃん!冷静になって!」
「っ……ウリル……か?」
はっとして辺りを見回すが、ウリルの姿はない。代わりに、夢幻に追従している光球がちかちかと明滅した。
「状況はどう?」
声は光球から聞こえているようだ。恐らくはこちらの位置も把握して今頃追いかけてくれているのだろう。
「巨大なカマキリ型の魔物だ。カマの部分にロキが引っかかっていて……動かない」
だから夢幻は、なるべく要点だけを告げる。ロキシスの状況についてだけ、多少の躊躇いが言葉ににじんでいた。それに気が付いた訳ではないだろうが、少しの間を置いてウリルの返事が返ってきた。
「……わかったわ。あ、夢幻ちゃん、もうそろそろ水路の端に到達す」
夢幻は、ウリルの言葉を最後まで聞くことができなかった。
唐突に、カマキリが九十度方向を変えたのだ。当然夢幻の身体は遠心力に振り回されることになる。
「うあぁぁぁぁ!」
振り落とされそうになり、慌ててしがみつく。
何とか方向転換に耐えきってほっと一息ついたところで、ロキシスの姿を確認する。ロキシスの身体は、あの動きにも関わらずカマにぶら下がったままである。しかし、振り落とされなくても衝撃で更なるダメージを受けたのは必至だろう。急がないと、ロキシスの身体が真二つになってしまう。
「夢幻ちゃん。大丈夫?」
「俺はな」
再び聞こえてくるウリルの声に言葉を返す。
「敵が方向転換したから先回りできそう。夢幻ちゃん、敵の動きを止められそう?」
「そうだな……」
焦る気持ちを抑え、冷静に敵を観察する。
夢幻が今いる場所はカマキリの左肩の部分。ほぼ目の前で透明な翅が震えている。振動具合からして、ぶーんという異音の出所もこれで間違いない。こいつさえ落とせば、敵の動きは止まるだろう。
「なんとかなりそうだ」
「合図するから、そのタイミングで止めて。ロキシスはどっち側?」
「右だ」
「おっけー。そろそろよ。五、四、三、二、一」
ウリルの合図に合わせて、夢幻はカマキリの翅を切り落とした。
軽い手応えと共に翅が後方に飛んでいく。制御を失い、今まで真っ直ぐに突き進んでいたカマキリのバランスがガクッと前のめりに崩れる。下を流れる水路に着水し、盛大に水しぶきが上がる。それでも慣性が働いているため止まらない。
その正面に、誰かが立っていた。
水路の中央に浮かぶ、毅然とした佇まい。カマキリの起こす風に、柔らかな亜麻色の髪が舞い上がる。確認するまでもない。ウリルだ。
ウリルは、何気ない仕草で右手を前に差し出す。途端、生み出される光球。それは、明かりに使うようなものではない。目が焼けそうになるほどに眩しい光と共に襲いかかる衝撃。光球はカマキリの右上腕に命中し、その衝撃でひっかかっていたロキシスの身体が宙に投げ出される。すかさず魔力で包み込みゆっくりと地面へ下ろす。
こうして、ウリルの鮮やかな魔法捌きによってロキシスの身柄は無事確保された。
ウリルの魔法の着弾と同時にカマキリから飛び降りた夢幻は、その一連の動作を横目で確認してから後方に吹き飛ばされたカマキリの魔物の前に立った。
でかい……。長身である夢幻ですら見上げるほどの大きさである。今いる水路は、主要路らしく天井高が高いためある程度の余裕はある。しかし、少なくとも夢幻をひっかけて爆走した通路はそんなに天井が高くはなかったはずだ。
よくあんなところを爆走できたものである。
そんな巨大なカマキリであるが、夢幻の手によって翅を切り落とされたうえ、片足が水路にはまってしまったらしい。抜け出すことができずに、じたばたともがいていた。両腕のカマをめちゃくちゃに振り回しているため、近づくだけでも一苦労である。しかし夢幻は、冷静にカマの軌跡を見極めて巧みにカマキリの懐へ飛び込んだ。
「お前に罪はないのかもしれない」
低い声で、独り言のように呟く。
好き好んでこんな地下水路を飛び回っていた訳ではないだろう。
「だが、ここでこうしているだけでもつらいだろう」
そして、
「何より、お前は俺の大切なものを傷つけた。だから……」
長剣を構え、狙いをつける。
「だから、俺の手で、お前を終わらせる!」
狙いは寸分違わず、カマキリの胴体に吸い込まれていった。
カマキリの身体が大きく仰け反る。夢幻は深々と突き刺さったままの長剣から手を離し、その勢いに身を委ねる。当然夢幻の身体は宙高く投げ出されるが、そこで腰に固定していた抜き身のままのロキシスの長剣を取り出した。天井を蹴りつけ、カマキリの頭に狙いを定める。
これで、終わりだ。
が、
手傷を負ったカマキリは、夢幻が思っていた以上に冷静に抗った。
振り上げられたカマが、夢幻の軌道上に構えられる。勢いのついた夢幻は避けられない。このまま攻撃しては、夢幻の身体の方が引き裂かれてしまう。
「しまった……!」
そこに、唐突に業火が襲いかかった。
業火は、カマキリの胴体部に直撃。あっという間に全身を包み込み、燃え上がる。堪らずカマキリのカマが夢幻の軌道から逸れる。おかげで夢幻はフード付きローブを切り裂かれた程度で済んだ。
しかし、
「あち、あちっ」
ローブに引火している。熱気に慌てているうちに、夢幻は水路に落下した。
服に着いた火は消えたが、全身ずぶ濡れである。そして、水路の水はお世辞にも綺麗とはいえない。
「ウリル!少しは加減しろ」
全身から立ちのぼる下水の臭いにうんざりしながら、通路に仁王立ちするウリルに抗議する。
「そんなちまちました攻撃で倒れるような相手じゃないわよ」
ウリルは右手を振りながら、平然とした表情で答える。ウリルも先程のロキシス救出の際に汚水を浴びているはずだが、全く汚れている様子はない。そんなウリルに促され、夢幻は後ろを振り返る。
二人が見守る中、炎に包まれたカマキリは為すすべもなく崩れ落ちていった。
カマキリを倒した夢幻とウリルが駆けつけると、エアは泣き出しそうな表情で横たわったロキシスに治癒術を行使し続けていた。
「大丈夫。まだ、生きています」
まるで自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
その手からは淡いエメラルドグリーンの光が溢れ、着実にロキシスの傷口を塞いでいた。
いくら奇跡の治癒術といえども、死人には効果はない。だから、その事実は確かにロキシスにまだ息があることを物語っている。
しかし、それでもエアは半信半疑なのだろう。それ程にロキシスの状態は酷いものであった。
今はまだ息があるけれど、力尽きてしまうかもしれない。
傷が回復するより先に、生命力の方が尽きてしまうかもしれない。
不安に苛まれながら、ただ、その時を待つ。
どのくらいの間そうしていただろうか。やがて、ロキシスの瞼がゆるく震えた。
「ロキ……?」
それに気が付いた夢幻が、恐る恐る名を呼ぶ。
薄く開かれたロキシスの碧眼をのぞき込んで、エアが声をかけた。
「ロキシスさん、わかりますか?」
ロキシスは、ぼんやりとエアの翠色の瞳を見つめる。やがて、おそるおそると手を持ち上げた。薄く開かれた唇から、かすれた声がもれる。
「女神……さま……?」
「え?」
困惑するエア。
夢幻は、咳払いをひとつ。エアを押しのけて声をかける。
「目を覚ませロキ。ここは天国じゃないぞ」
「夢幻?」
その声に、ようやく我に返ったらしい。ロキシスは勢いよく起き上がる。
「俺は……っう」
そして、激痛と嘔吐に悶絶した。
「これだけ元気なら死ぬことはないだろう。エア、すまないが先に本部に戻って応援を呼んできてくれ」
夢幻は硬い床の上を転げ回るロキシスを見つめながら言った。
「え、でも……」
想定外の頼みに躊躇うエア。その手を、ウリルがつかむ。
「行きましょう」
エアは驚きの表情を浮かべるものの、ウリルの手を振りほどいたりはしなかった。
「わかりました。すぐに戻ってきますので」
そう言って、エアとウリルは去っていった。
地下水路には、夢幻とロキシスの二人だけが残された。
ロキシスは、さかんに吐血しては痛みに転げ回っている。あの状況では当たり前であるが、傷が内臓まで達していたらしい。
「し……死ぬ……もうだめだ……」
「死ぬって言う奴ほど、案外大丈夫なものらしいぞ」
ぐったりと悲鳴を上げるロキシスに、夢幻が冗談混じりに声をかける。
今まで何度も死に逝く人。生還した人を見てきた夢幻にはわかる。ロキシスはもう大丈夫だ。
ロキシスの呻き声だけが響く地下水路で、夢幻は親友を救い出せたことに深く安堵していた。