柊夢幻サイド3.one’s own self

 いつも通りの朝だった。
 まだ陽の上らない薄暗い白い空。わずかに聞こえる、鳥のさえずり。
 いつも通りに、シャツとズボンだけを身につけて静かに階下へ降りる。
 外の水場で顔を洗い、軽く運動。
 いつもの朝。いつもの日課。だけど。
 俺は空を見上げる。
 先ほどより幾分明るくなった空。毎日ここで見ている空。

「美琴……」

 呟く名は、空へと吸い込まれていく。
 同じ空の下に、その姿が存在する保証はない。無駄なことだと笑われたことだって、一度や二度ではない。俺自身、根拠なんてないんだ。それでも。
 不思議な確信がある。
 十七年一緒に過ごした少女は、今でも変わらずどこかに存在する。
 だから、俺の歩く道はひとつ。

「必ず、迎えに行く」

 

 日課を終えて寮に戻ると、食堂のカウンターに一人分の食事が湯気を立てていた。

「おはよう。夢幻」
「レイリィ。おはよう。今日は早いな」

 俺を出迎えたのは、白い肌に白金の髪。アイスブルーの瞳といったやたらと全体的に色素の薄い女。この寮の管理人で、名前をレイリィという。結構な年のはずだが、年齢は不詳だ。

「今日は早く発つんだろう?挨拶くらいはしてやろうと思ってさ。ごはん、食べていくだろう?」
「いくだろ?って、それ強制じゃないか。まあ、いただいていく」

 まともな話、朝食は諦めていたので申し出はありがたい。大人しくカウンターに着いて、湯気を立てるスープに手を付ける。

「私の料理を全部平らげてくれるのなんて、あんた位だしね。寂しくなるよ」
「そう思うならもう少し腕を上げる努力をしてくれないか」
「これでも精一杯努力してるよ」

 そう言うレイリィの得意料理は、この野菜や肉や、何かよくわからない具材まで色々な物をごった煮にしたスープである。見た目も大雑把なら味付けも大味で、お世辞にも美味しいものではない。本人は料理が美味くないことを生まれつき色がよく見えないせいにしたがるが、俺は全然関係ないと思っている。
 妙に尖った味付けのスープを平らげる俺を、レイリィは黙ったままカウンターに肘を付いて見つめている。

「そんなに監視してなくても、全部食べるぞ?」

 視線が気になって、落ち着かない。

「そんなつもりはないさ。まあ、私にも思うところがあってね」

 レイリィは目を細めてそんなことを言う。もちろん、視線を外してはくれない。仕方なく、努めて気にしないように食事を続ける。

「夢幻」

 唐突に名を呼ばれる。

「ん?」

 丁度大きめの野菜を頬張ったところで、まともな返事が返せない。レイリィは、そんな俺を気にすることなく言葉を続けた。

「わかってると思うけど、思い詰めすぎないように。遠い地で何かあっても、助けてあげられないんだからね」

 いつまでも子供扱いかよ。反論したかったが、大振りの食材が言葉を発する邪魔をする。このタイミングで声をかけたのは、きっとわざとだ。今になって気付く。

「あんたは嫌かもしれないけれど、私達はいつだってあんたのこと、心配してるんだ。戻ってきた時は、思う存分甘えていいんだからね」
「誰が、甘えて……」

 大慌てで野菜の塊を飲み込んだのに、言葉が出てこない。
 俺にできることは、皿に残ったスープを飲み干すこと。「ごちそうさま」と、絞り出すように伝えて、自分の部屋に戻ること。それだけだった。

 部屋に一人きりになったところで、こみ上げてきた熱いものが堪えきれずに溢れ出す。

 レイリィ、ありがとう。

 閉めた扉に背を預けて、俺はそのまましばらく動くことができなかった。

 

 今日のために用意しておいた黒い私服を着て、ベルトを締める。
 ベッド横に置いていた剣を鞘から引き抜くと、手入れの行き届いた刃がきらりと輝く。曇りや刃こぼれがないことを確認してから鞘に戻し、右腰に吊り下げる。大陸警備機構に入った時に、世話係となる先輩から支給される普通の長剣だが、俺にとっては長く愛用している手に馴染んだ相棒だ。
 そして、図らずしも同じ人物から贈られたローブを手に取る。恐らくこれは、支給品であった剣とは違い彼女の私費から調達されたものだ。その計らいが、俺には嬉しかった。仕事上では、先輩であり、相方であり、今では俺の上に立つ人間。それでも、仕事の範囲外のところでも俺のことを考えてくれている。それがとても、有り難い。「離れていても、ちゃんとサポートする」そんな言葉が、聞こえるようだ。同時に、「だからちゃんと仕事してきなさい」というプレッシャーも感じる訳だが。

「心配しなくても、ちゃんとやってくる」

 最後まで、俺が冒険者になることを反対していた彼女に。心の中で呟き、紺色のローブを肩に掛けた。
 ほんのちょっとだけ窮屈な肩幅が、彼女に包まれているようで心強かった。

 旅支度を終えて再び階下に降りた俺の姿を見て、レイリィが目を細める。

「そうしていると、結構さまになってるね」
「そうか?」

 自分で自分の姿を見てみても全くわからない。ただ。

「まあ、気は引き締まるな」

 いつもと違う服が、背負った荷物の重さが実感させてくれる。

「いってきます」

 その言葉だけ短く告げて、すぐに背を向ける。
 多くを語る必要はなかった。留守の間のことはすでに頼んであるし、今生の別れという訳でもない。
 それに。
 あまり長くここにいると、感極まってしまいそうだった。
 沢山の人に助けられてここまでこれた。それくらい、ちゃんとわかっている。
 感謝の言葉を口にするのは、少々気恥ずかしいから。せめて行動で示そう。そう思った。

「いってらっしゃい」

 軽い。レイリィのいつもと変わらない言葉に送られて、俺は寮を出た。

 

 ようやく白み始めた空は雲一つなく、どこまでも高く感じられた。
 同じ空の下、彼女はきっと俺を待っている。脳裏に浮かぶのは、赤い髪。赤いスカート。小柄で、ほんの少し大人びた少女。
 片時だって、忘れたことはなかった。いつだって、考えていた。
 やっと、探しに行ける。
 この日をどんなに待ち望んだか。
 この日をどんなに夢見たか。
 渇望。期待。感謝。
 色々な強い想いを胸に。俺は、前へ踏み出していく。