扉の開く気配に、食材の確認をしていた私は振り返る事なく声を上げた。
「こんな夜更けに何の用だい?一応関係者以外立ち入り禁止だよ」
「相変わらず素っ気ないな。レイリィ」
返ってきた声は、良く知った声。
「あんたがこんな所に来るなんて、珍しいね。ジェント」
長身で、精悍な雰囲気の壮年の男。私とは腐れ縁というか、つかず離れずの付き合いをもう何十年も続けている間柄。ジェント・ヒルレインというのが男の名だ。
「ま、たまにはお前さんの顔を見に。な」
「そんな気を使うような建前はいらないよ。丁度朝飯の仕込みをしてた所だ。せっかくだから何か食べていくかい?」
「勘弁してくれ。美味しい予感が全くしない」
「失礼しちゃうね。人がこんなに頑張って作っているのに」
ま、自分の料理が不味いという自覚はある。人間誰しも苦手なもののひとつやふたつあるものだ。
「じゃあ、こっちはどうだい?」
気を取り直してカウンターの下から瓶をひとつ取り出す。
「お前はこんなところに酒を隠してるのか。まあ、飲み足りなかったしせっかくだからいただこう」
「あの子の壮行会で飲んできたんじゃないのかい?」
「あいつら、全然飲まないんだよ。若いうちこそがんがんいった方がいいと思うんだがな」
「あはは。確かにロキシスはともかく、夢幻は全然飲まないね。はい、どうぞ」
グラスをふたつ。カウンターに置き、瓶の中身をそそぎ入れる。
「悪いな。ああ、綺麗な赤だ」
ジェントは嬉しそうにグラスを口元に運ぶ。生まれつきの体質のせいで、私にはその色は理解できない。しかし、ジェントの反応からそれが美味しそうな色をしているということだけはわかった。期待を胸に自分もグラスに口を付けると、爽やかな風味が口内へ広がる。
「ん。そうね。結構イケる」
確かにかなり美味だ。酒にはあまり詳しくないが、どうやら当たりの銘柄だったらしい。
それからしばし、お互いに無言であった。
流れる静かな時間を気まずいとは感じない。こういう時は、ジェントが切り出すまでは私からはなにも聞かない。それが私達の暗黙の了解であった。
どの位そうしていただろうか。
瓶に残った最後の液体がグラスに注がれたタイミングで、ジェントが口を開いた。
「あの子は……ちゃんとやれるだろうか……」
「心配してるのかい?」
半ば予想していた言葉であった。
大陸警備機構を引退してどこかに隠居したきり一切の連絡が付かなかったジェントが、ある日突然この街に帰ってきた。異国の雰囲気を持ったひとりの少年を連れて。
何も知らなかった少年は、数々の苦難を乗り越えて今では若き大陸警備機構のホープである。そして今日。この夜が明けたら彼は冒険者としてこの街を発つ。それは、ジェントのたどった道と同じ道だ。ジェントの心配も……もっともだろう。その仕事が、今までの苦難以上に過酷なものであるということを、身を持って知っているのだから。それも、ジェントにとって彼は。
「完全に父親面だねぇ。養子縁組みの話は断られたんだろう?」
夢幻が大陸警備機構の養成学校の試験を受ける際に、ジェントは彼の身元保証人になっている。実質、夢幻の保護者なのだ。もっとも、本来は養子に招きたかったらしいが、本人の希望でその話については断られたらしい。直接聞いた訳ではないが、彼がヒルレインの姓を使用していないのだからそうなのだろう。
「それでも、頼まれたからには俺が保護者だからな」
そう言って、気まずそうな笑いを浮かべるジェント。否定しないのは、それが事実だからなのか。
私は、そんなジェントに前々から気になっていたことを投げかける。こんな機会はなかなかない。
「そういえば、頼まれたって誰に頼まれたんだい?女?」
「あの方はそんなんじゃないよ」
返ってきたのは、意外な言葉。
あの方。敬うようなその言い方は、普段のジェントはしない呼び方だ。ジェントとその人との間に、一体何があったのだろう。胸の奥で、何かがちくりとする。こんなに長いつきあいなのに、私には知らない部分がいくつもあって……
「まあ、昔の話だ。俺にとっては命の恩人ってとこだろうな。同じ人間とは思えない程儚くて、尊くて……」
「でも女なんでしょ?」
自分の気持ちをごまかすように、言葉を遮る。
「お前。俺のことを野獣か何かだと思ってないか?」
「あんたの日頃の行いを見てれば誰だってそう思うよ」
「いつの話だよ」
いつだってそうだ。目の前のこの男は、女と見るや見境ない。巧みな話術と笑顔ですぐに仲良くなってしまうものだから、私はいつだって冷や冷やしたものだ。私もまた……彼の話術と笑顔に引き込まれたクチだから。
「まあ、冗談は置いておいて。私にとっても、あの子は大切な子だよ。あの子を放置してあちこちふらふらしてたあんたと違って、私はずっとあの子の辛いところを見てきたんだから」
そう。私が初めて会ったあの子は、追いつめられていた。行き場のない思いを抱えて。誰にも心を開けずに。身も心もぼろぼろだった。
「別に、ふらふらしてた訳じゃないんだがな。だが確かに結果として夢幻の相手をしてやれなかったのは事実だな。そういう意味では感謝している。リリーにも、ロキシスにもな」
ジェントはそう言って自分の妹とその息子の名を上げる。言外に私の名はあるのだろうが、それでも不満を感じずにはいられない。
ただ、夢幻が今日までこうしてまっすぐに生きられたのにはロキシスの存在が大きかったことだけは確かだろう。何せ、ぼろぼろになった夢幻を私の所に連れてきたのはロキシスだ。そして、ロキシス自身も夢幻の存在によって大きく成長したことを私は知っている。
「大丈夫だよ」
だから、私は自信を持って言う。
「夢幻は一人じゃないんだ。帰りを待つ人もいる。守りたい人もいる。夢幻自身に目的もある。簡単に死ぬような器じゃないさ」
「そうか。……そうだな」
ようやく、ジェントの表情が柔らかいものになる。
「すっかり長居してしまったな。もうじき夜も明ける。そろそろおいとましよう」
「いいのかい?夢幻に会いに来たんだろう?」
普段から夢幻の朝は早い。旅立ちの朝ということもあって、今日は更に早く起きてくるだろう。それはもうすぐのはずだ。
「大丈夫だと言ったのはお前だろう。またすぐに会えるさ」
そう言って笑うジェントの表情には、僅かに照れている様子がうかがえる。
「ジェント。あんたは夢幻の……」
思わずそこまで口にして言葉を飲み込む。本人から否定の言葉をすでにもらっている。この問いは、愚問だ。
「またいつでもおいで。どんな時だって暖かく出迎えてやるよ」
気を取り直して。差し障りのない言葉をかける。
ジェントはすでに背を向け、こちらに手だけを振って応える。
そうして薄暗い食堂に、私は再び一人になった。
上階から聞こえる僅かな物音を捉えたのは、それからすぐ。
こんな時間に起き出してくる奴は、この寮では一人しか知らない。どうやら、噂の主が起き出してきたらしい。
カウンターの上に置いたままの空になったグラスとボトルを手早く片付け、作っておいた料理の鍋に火を入れて温めておく。
私にとっても実の息子のように愛おしいあの子を、精一杯暖かく送り出すために。