柊夢幻サイド1.senior officer

「シャイア。入るぞ」

 その言葉と共に、室内に踏み込んでくる気配を感じた時、私は目の前に山と詰まれた箱の中身を確認していた。
 朝からひっきりなしに挨拶や荷物の配達で人が頻繁に出入りすることもあって、扉は開きっぱなし。誰が入ってきてもおかしくない状況だが、今入ってきた人物が誰であるか。それだけは顔を上げなくたってわかる。

「夢幻。やり直し」

 箱の中の書類に目を通しながら短く告げる。明らかに不満そうな反応を感じて、私は言葉を続ける。

「まず、ノックする。名前をきちんと名乗る。そしてちゃんと相手、この場合は私から返事があってから中に入りなさい。それと上司に対して呼び捨てはやめなさい」

 呆気にとられたのか。目を合わせるどころか顔すら上げない私に多少なりとも動揺しているのか。文句のひとつでも言ってやろうかと考えていたのか。

 ややしばらくの、間があった。

 どう出るだろうか。
 そんなことを思いながら、私は作業を続けていた。
 そうしているとやがて、扉を叩く音が部屋に響いた。

「柊夢幻だ」

 ぶっきらぼうに名乗る声。
 どうやら言われた通りにやる以外のことを思いつかなかったらしい。
 そこで、ようやく私は手を止めて顔を上げた。
 きちんと部屋の外に出て扉に拳を当てた夢幻が、所在のない表情で立っていた。
 濃紺の大陸警備機構の制服をまとった長身は、半年に及ぶ訓練によって更にたくましくなったように感じられる。その顔つきも、改めて見ると出会ったばかりのころと比べて精悍で。
 毎日顔を合わせているというのに、私は思わずその立ち姿に魅入っていた。

「……えーと。入っていいのか?……シャイア……さん?」

 間に耐えきれなくなったらしく、困惑するように声を上げる夢幻に我に返る。

「四十点。といったところね。今回は勘弁してあげるけれど、精進しなさい」

 私は、精一杯取り繕って夢幻を室内に招き入れた。私が惚けてしてしまった分、これでも採点は甘めだ。本当は何度でもやり直しをさせたいところだが、今日ばかりはさすがに時間が勿体無い。

「それにしてもすごい荷物だな」

 入室許可が出て安堵したのか、夢幻はそんなことを言いながらこちらへ歩いてくる。

「全部仕事に使う資料よ」
「これ、全部か……先が思いやられるな」

 確かに、まともにこの量の資料を元に世界中を飛び回ると考えると先行きに不安くらい感じるだろう。だから私は精一杯の微笑みと共に言う。

「心配しなくても大丈夫よ。この資料を精査して的確に指示を出すために私がいるのだから」
「……だから心配なんだが」

 心底うんざりした調子で呟く声。我ながら信用ないと思うが、それだけ厳しくしてきたのも事実なので反論したりはしない。その代わり、にこやかに夢幻に仕事を言い渡す。

「そういう訳だから、早速だけど箱の中身を書棚に移してちょうだい」

 夢幻の表情が固まる。視線が足元に山と積まれた箱に向かい、私の顔に移り、もう一度箱へと向く。
 内心、何かの冗談であって欲しいと祈っているのだろう。
 残念ながら、私は仕事で冗談を言ったことは一度もない。
 夢幻自身、それは身を持って良く知っていることである。すぐに諦めたように箱を抱えて、夢幻はひとり黙々と作業を始めた。

 

「夢幻」

 見計らって声をかけたのは、陽が落ち始めた頃だった。
 朝から今まで。夢幻はただひたすら書類を書棚に詰める作業を行い、私はまだ片付いていない自分の机にいくつかの書類を持ち込んで仕事をしていた。
 見たところ、夢幻の作業の進捗状況は五割といったところか。作業中、こちらは一切手も口も出さなかったため書類の並びはめちゃくちゃであろう。が、今日ばかりは目を瞑るしかない。

「なんだ?」

 夢幻がこちらに顔を向ける。
 私がタイミングを見計らったこともあり、丁度箱がひとつ空になったところであった。

「呼ばれたらはいでしょ。すぐに動けるならこっちに来る」

 私は、溜め息混じりに夢幻を睨み付ける。まったく、この男は何度言っても礼儀というものを覚えようとしない。
 言われてやっと、夢幻が私の机の前まで来る。
 机越しに、私と夢幻が向かい合う形。それは、否応にも私達の上下関係を明確にする。私は、一度手元の資料をざっと見返してから、それをいつも私の半歩後ろを歩いていた後輩へ手渡した。

「柊夢幻巡査長。最初の任務よ。詳細は指示書に書いてあるからきちんと目を通すように。現地の情報についてはこっちの資料を見てちょうだい」

 不思議な気分だった。自分で言っている言葉が、自分のものではないような錯覚。この空間が、現実ではないような感覚。
 真剣な面持ちで資料に目を通している彼の姿を、こんなにも落ち着いて見ていられる自分が、たまらなく不思議だった。

「概ね理解した。不安がないといえば嘘になるが、大丈夫だ」

 たっぷりと時間をかけて、一通り資料に目を通した夢幻が声を上げた。

「概要くらいはもう少し早く読み取るようにね。あと、指示書と資料は物を当てにしないできちんと頭の中に叩き込むこと。機密度の高い仕事の場合は、資料を持ち出せない事もあるわ。それから、先方には失礼がないように。報告書はきちんと書くこと。それと……」

 厳しい言葉しか出てこない自分が腹立たしい。
 おかげで、用意してきた言葉が口にできない。

「シャイア……?」

 口ごもる私に、夢幻が不思議そうな表情を見せる。私を見つめる紫水晶の双眸に、ほんの少しだけ勇気が出る。そう、こんなのは、自分らしくない。
 一瞬だけ目を閉じて、深呼吸。それから机の下に置いてあった包みを取り出して、夢幻に手渡した。

「餞別よ。これを持って行きなさい」

 ますます怪訝そうな。いや、どちらかというと警戒した表情で包みを解く夢幻。ろくでもない物が入っていると思っているのだろう。これも私の日頃の行いの賜物か。まあ、中身はそんなたいした物ではないのだけれど。

「これは……」

 中から出てきたのは、紺色の布地。フード付きのローブである。長身の夢幻に合わせてあるので、かなり大きい。

「長旅には必要な物よ」

 驚きの表情に変わった夢幻に、着てみるように促す。
 促されるままに、ローブに袖を通す夢幻。だが、すぐにその動きが止まる。私にも、その原因がすぐにわかった。

「……もしかして……きつい?」

 左腕を通し、右腕を通そうとしたところで動きが止まったのだ。困惑した表情で夢幻が頷く。どうやら私が思っていた以上に夢幻の身体はたくましかったらしい。いや、ここ最近でたくましくなった。というべきなのか。

「お直しした方がいいわね。すぐにはできないから、渡すのは貴方が帰ってきてからになるけど……」
「いや」

 私の言葉に、夢幻は静かに首を振る。

「これで問題ない」

 ローブの袖から腕を抜き、前の紐を留める。マントを着けたような格好だ。何故かそれなりに様になって見えるから不思議である。

「その、シャイア。ありがとう……な」

 照れ臭そうに笑う夢幻に、どきりとする。
 同時に、心のどこかで警鐘が鳴る。

 だけど、大丈夫。
 もう、時間だから。

「夢幻。今日はここまででいいわ」
「えっ。いいのか?」

 私の言葉に、驚きの声を上げる夢幻。

「明日は早いでしょう。今のうちにみんなに挨拶してゆっくりと休みなさい。それとも、旅立つ前に残っている仕事を完璧に片付けられるのかしら?」

 そう言うと、夢幻は大慌てで首をぶんぶんと横に振る。

「あ、明日に備えてゆっくりと休ませていただきます」

 初めて会った時は何を考えているのか良くわからなかったものだが、案外単純な人である。私は、心の中だけでくすりと笑ってから一言付け足す。

「それに、丁度迎えも来たみたいだしね」

 その言葉に、夢幻が振り返り戸口を見る。
 残念ながら今は扉が閉まっているため、見えるのは自分達以外誰もいない室内だけだ。再びこちらを振り向き、騙したのかと睨みつけてくるが、残念ながら私には確かに扉の向こうにこちらを伺う気配があるのがわかる。
 だから、私は扉の向こうに向けて声をかけた。

「入ってちょうだい。そこでこそこそされると悪い気分になるわ」

 息を飲む気配。少しの間。そして、観念したように返ってくる応え。

「す、すいません。ロキシス・アーネル、入ります」

 扉を開けて入ってきたのは、金髪に制服姿の若者。夢幻の表情が、自然とほころぶ。

「ロキ!」

 ロキシス・アーネル。夢幻の親友らしい。
 先日まで行っていた「研修」に夢幻に付き合って参加していたため、私も良く知った人物である。もっとも、その時の私達の関係は教官と生徒だ。私が相当厳しくしていたため、向こうはいい印象は抱いていないだろう。
 実際、今もかなり緊張しているようだ。

「申し訳ありません。こそこそするつもりはなかったんですけど……」
「気にしなくてもいいわ。友人が心配だっただけでしょう?今日はこれで終わりにするから、連れて行ってあげて」

 やや上擦った調子でしゃべるロキシスの緊張が解けるよう、極力柔らかい調子になるように気を付けながら言葉を返す。

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて失礼させていただきます」

 対するロキシスの返事と礼は、ややぎこちないものであった。やはりこの程度では私に対する緊張は解けないようだ。
 しかし、それでは困るのだ。この先。
 私は世間話をするような調子でロキシスに声をかけた。

「そうそう。今日夢幻が出来なかった分の仕事は貴方に頼むことになると思うから、よろしくお願いするわ」

 夢幻とロキシス。二人の表情が明らかに凍り付いた。
 どういうことなのか。何かの冗談なのか。色々な思いが渦巻き、言葉が出てこないといったところだろうか。実はもう決定事項なので、今更目の前の二人が何を言ったところで変わらない事案だ。
 ロキシスは、夢幻に付き合って研修を受けたことが認められて、先日から私と夢幻が今までいた部署に配属されている。
 私達の部署はそこからの派生であり、協力関係である。
 実質私と夢幻の二人だけの部署であるため、応援をお願いすれば人員の融通がきくように配慮されている間柄だ。
 私は、夢幻が旅に出ている間に手伝ってくれる人員をそこに頼んでいて、今朝方ロキシスを寄越してくれるという話を聞いていたのだ。
 配属されたばかりで手が合いているというのが主な理由らしい。しかし、彼の様子を見る限りその話は本人には言っていないようだ。
 まったく、意地悪な方だと思いながらも、あの人らしいと上司のことを思い浮かべる。
 当の若者達は、結局一言も発することなくぎこちない笑みを浮かべて退出していった。
 私の言葉に冗談がないこと位、彼らは嫌というほど知っている。
 閉まった扉の向こう。二人は明日に向けて、色々な想いを馳せるのだろう。

 

 二人の気配が完全に遠ざかるのを待ってから、私は脱力するように窓辺にもたれかかった。思わず、ため息がこぼれる。

 引き止めたかった。
 ずっと自分の隣に、繋ぎ留めておきたかった。
 それでも、受け入れるしかなかった。
 それは、自分のわがままでしかなかったから。
 だけど。だけど……
 この喪失感は、他の誰にも埋められるものではなくて。
 だから私は祈る。たぶんこの先も、何度でも。
 必ず。私の元へ帰ってくるように。

「……らしくないわね」

 自分に活を入れるように立ち上がり、窓を開ける。
 すっかり陽の落ちた空。ひんやりとした風が心地よい。
 再び陽が登る頃には、彼はもう旅の空。しばらく、言葉を交わすことも。姿を見ることも叶わない。

 だからせめて、私は誓う。
 遠い旅の空の彼に、できる限りのことをしよう。

 だからせめて、私は思う。
 明朝。旅立つ彼の姿を、遠くから見守る位はしよう。と。