子供のころ通っていた教会に、一枚のレリーフが飾られていた。
描かれていたのは、ひとりの女性の横顔。
長い髪を風になびかせて。
うたうように。祈るように虚空を仰ぎ見る。
それはこの世界を救ったと云われる女神。
その表情は穏やかで。慈愛に満ちていて。
だけど、少しだけつらそうに微笑んでいた。
子供心に俺は、
その表情に惹きつけられて離れられなかった。
「やあ、元気?」
我ながら、ぎこちない挨拶。
「はい、こんにちは。気を使っていただいて、ありがとうございます」
やや的外れな返事を返す彼女。
「その、今日は俺もこれで上がりなんだ。良かったらその……一緒に食事でもどうかなと思って」
やっとの思いで振り絞った言葉。
そこで、堪えきれないとばかりに吹き出す者。
横目で睨み付けるが、彼女の隣に立つ女性が笑い止む気配はない。
しかし、俺としてもそんなことにいちいち構っている場合ではない。
俺はただ、彼女の透き通った瞳を見つめ、その応えを待つ。
彼女は、口元に手を当てて考える素振りを見せる。
ややしばらく。
躊躇いがちに開かれた唇から紡がれるのは、ほぼ予想通りの言葉。
「ごめんなさい。帰って食事の用意をしなければならないので……」
「ほら、今日も振られた」
その言葉に、甲高い声を上げて女性が俺を指差す。
この女性は、彼女の仕事の相方であり先輩に当たる。彼女とはいつも一緒であり、つまりこのやりとりをいつも見ている人物ということになる。
「本当にあなたも懲りない方ですわね」
そう。俺はこの時間に仕事を上がれる日には、決まって彼女を食事に誘っている。
彼女は、決まって同じ言葉で俺の誘いを断る。
それが、毎日のように続いているお決まりの流れ。
そんな俺たちのやり取りは、彼女といつも一緒に居る女性にとって心底可笑しいらしい。
「先輩。そんなに私たちが可笑しいですか?」
彼女にとっては、それが不思議らしい。
だけど。
その疑問に対する答えを聞かせたくない。
これから続く言葉を遮りたい。
そんな権利、自分にはないことくらい、解っている。
だから俺は、可笑しそうに語る女性の言葉をただ黙って聞いていることしかできない。
「この方はとんでもないプレイボーイなのですわ。毎日毎日色々な女性をとっかえひっかえして歓楽街に繰り出していたのですわよ。それが、ある時を境に女遊びを一切しなくなったと思ったら、ウブな少年のように毎日貴女に声をかけて、そして断られている。これが可笑しくないはずがないじゃありませんこと?」
確かに、それは真実。
俺は、何かに飢えていて。
渇きを満たす為に享楽的に日々を送っていた。
考え方が変わったのは、いつからだっただろうか。
今となっては、恥ずかしい過去。
正直、勘弁して欲しい。
笑い続ける女性。うんざりする俺。
解っているのか、控え目な笑顔を見せる彼女。
「ふふ、仲が良いのですね」
こんなことくらいで、俺に対する彼女の見る目は変わらない。
それくらい、彼女に対しては信用している。
だけど、恥ずかしくて。
必死に心の中では彼女に対する弁解の言葉を考えている自分がまた、情けなくて。
そんな心中。悟られたくない。
だから。
いつも通りに、いつもの言葉を口にする。
二人並んで、舗装された通りを歩く。
俺と彼女の家は、正反対に位置する。
だから、偶然帰り道が一緒という訳ではない。
ましてや、何かの間違いでやっぱりお誘いに了承してくれた。という訳でもない。
この状況は。この状況までが、俺たちのいつも。
そう。
いつもの誘いを断られた俺は、家まで送ると申し出る。
今の所、彼女がその申し出を断ったことはない。
最初の誘いを断った負い目もあるのだろうが、少なくともそれを嫌がったり遠慮したりするような間柄ではない。
それだけは、確信している。
道中。特に会話がある訳ではない。
彼女の家までのそう長くない道のり。
それを、ただ黙って隣に立って歩くだけである。
だけど、気まずい空気はない。
ゆったりとした歩調で歩く彼女は、穏やかな表情で。
時折、露天の人々や木の枝に止まる小鳥たちなんかに目を向けている。
俺も、こうしている間は不思議と穏やかな気持ちになれる。
不意に。
ふわりと吹き込む風に、彼女は長い髪を押さえ天を仰ぎ見る。
その横顔に、どきりとする。
穏やかで、優しい。微笑みにも似た表情。
だけど、透き通った瞳はどこか辛そうな光をたたえていて。
視線を外すことができない。
呼吸すら忘れて、その横顔に魅入ってしまう。
「どうかしましたか?」
声をかけられて、我に返る。
まっすぐな瞳に射抜かれて、心臓が跳ね上がる。
何か返さなければと思いながらも、言葉が出ない。
「大丈夫ですか?上がって少し休んでいった方がいいかと思いますが?」
その言葉に、もうすでに彼女の家の前まで来ていたことに気が付く。
「あ、いや、大丈夫」
慌てて手と首を振る。
心配そうな表情を浮かべるものの、あまり詮索しないところも彼女の良いところ。
「送っていただいて、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、自宅の扉を開ける。
対して俺は、精一杯の笑顔を浮かべて。
手を振って。
「……!」
ドアの閉まる間際、思わずその名を呼ぶ。
「はい?」
あとほんの少し。
それだけで、閉ざされるはずだった扉が再び開く。
不思議そうな彼女の表情が、扉の影からのぞく。
「あ……」
特に、かける言葉が決まっていた訳ではない。
だけど。
「お疲れ様。また明日」
言葉は、自然に出て。
「はい。ありがとうございます」
彼女は、柔らかく微笑む。
それは、間違いなく俺だけに向けられた微笑み。
今度こそ彼女の姿は扉の向こうに消えて。
俺ひとりだけが残される。
だけど、胸の中は暖かい。
初めて会ったあの日。一目見て、理解した。
彼女こそ、俺が探し求めていたもの。
まさに、俺の女神さまなのだと。
モノクロだったレリーフは、俺の心の中だけで鮮やかに色彩を得た。