夢幻が村に到着したのは、すっかり夜も更けてからであった
大陸警備機構仕込みの追跡術を駆使して女を追った結果、痕跡はこの村の方向に続き。村の手前で唐突に途切れた。
故意に痕跡を消した。明らかに、そんな感じであった。そのような技術は、当然存在している。彼女が魔道士ならば、そう手間も時間もかからないだろう。
この事実に、夢幻は混乱した。
女が消えた場所から痕跡が消えた場所までは、それなりの距離がある。自分の痕跡を消そうと思うなら、もっと早い段階で行うのが普通だ。
女は、自らの意志で夢幻を村までいざなった。
夢幻には、そう思えた。
罠か。あるいは……
多少悩んだものの、夢幻はあっさりと村に行くことを決めた。
あまりにも見事に痕跡を消されてしまったため、他に手段を思いつかなかった。それもあるが、何よりこの辺りには他に人里がない。情報取集をするにしても、夜を明かすにしても、村に行くことが最善なのである。
村に一軒しかない酒場の扉を開けると、狭い店内は夜更けにも関わらず繁盛していた。
「よお、兄ちゃん。戻ってきたのかい」
扉を開く音に振り向いた客の一人が、夢幻の姿を認めるなり片手を上げて声をかけてきた。
昨晩、夢幻がこの酒場を訪れた際に声をかけてきて、質問責めにしてきた人物である。
森を切り開いて作られたこの小さな村は、街道の途中にあるものの、先は広大な森と国境。その隣国は国交を断絶し、国境を固く閉ざしている。そのような事情があるため、旅人の姿は珍しいのだそうだ。
実際、酒場の客たちは仕事が終わった村人たちばかりであり、ついでにいうと、今も昨晩と変わらない顔ぶれがそろっている。皆、常連なのだろう。
「やっぱり国境は越えられなかっただろう?愚痴くらい聞いてやるぞ」
村人は昨晩と全く同じ席に座り、同じメニューをつまみながら同じ仲間たちと話し込んでいたようだ。そして、昨晩夢幻が入ってきた時と全く同じようによそ者である夢幻に気さくに席をすすめてくる。
夢幻は村人の近くまできたものの、すすめられた席には座らずに立ったまま答える。今日は食事を取りにきた訳ではない。そもそも、取りたくても取れない。
「ちょっと事情が変わって、引き返してきたんだ。それで、少し聞きたいことがあるんだが」
夢幻は、ほぼ酒場の中央に立つ格好になっていた。よそ者であることも手伝って、否応なしにその場にいる者たちの注目を集める。
その場にいる者たちが夢幻に注目したことを確認してから、夢幻は口を開いた。
「女を探しているのだが、知らないか?二十歳過ぎくらいの、亜麻色の髪の女だ」
瞬間。酒場中に動揺が走ったのを、夢幻は確かに感じ取った。
かたーん
甲高い音が、響き渡る。
誰かが、食器を取り落としたようだ。
「お、俺はそんな女、知らないぜ」
「俺も知らない。断じて知らない」
慌てたように、村人たちが首を横に振る。
あからさまに白々しく、あやしい態度。全員の目が、泳いでいる。このような反応は、正直想定外であった。
誰か一人でも何か知っていれば。手がかりがつかめられれば。そのような、わらにでもすがる思いであったのだ。
これは、もうひと押しでボロが出るかもしない。
「そうなのか……?」
更に詰問しようと言葉を発した夢幻の肩を、後ろから叩く者があった。
「すまんがここは集会所じゃないんだ。飲食するつもりがないなら出ていってくれないか」
振り返ると、エプロン姿の大男が立っていた。
確か、この酒場のマスターだ。
夢幻がそう思い至るまで、少しの時間を要していた。
昨晩も夢幻はこの酒場を訪れ、利用していた訳であるが、彼は常にカウンターの奥で調理にはげみ、常連の話にうなずくのみで、会話を交わすことはなかった。注文や会計なども常連客たちが取り仕切っていたため、寡黙なマスターはあまり印象に残らなかった。
そのマスターが、いつの間にかカウンターから出て、夢幻の背後に仁王立ちしていた。
それだけでもただ者ではないと感じるが、こうして目の前にするとものすごい威圧感である。平均よりかなり長身である夢幻と目線の高さが同じである上、向こうの方がいかつい体格をしている。そして、先のひと言を発したきり。後は何も言わず。ただ、夢幻の目を見つめている。
あれだけ騒いでいた村人たちが固唾をのんで見守る中、夢幻は頭を下げた。
「邪魔をしてすまなかった。自分は夜明けまではこの村にいるので、何か思い当たることがあれば声をかけていただけると助かる」
それだけ言うと、夢幻は酒場を後にした。
そうして、外にいる村人たちに声をかけてまわることしばし。
村の中央にある大木に身を預け、夢幻は完全に行き詰っていた。
この時間に外にいた数少ない村人たちに声をかけた結果、返ってきた反応は酒場にいた者たちとほぼ変わらなかった。
人当たりよく挨拶を返してくれて、にこにこと夢幻の話に耳を傾けてくれた人々が、女の特徴を伝えた途端に動揺を顕にし、警戒心を強める。そして、知らないと繰り返し、逃げるように家へと引きこもってしまう。
気が付くと、外にいる者は夢幻ただ一人になっていた。
絶対、彼らは女のことを知っている。
知っていて、必死にそれを隠そうとしている。
夢幻には、そう思えた。
村人たちの反応から考えると、女の正体を知っている上で庇っているような印象を受ける。それも、脅されたり騙されたりしている感じではない。自主的に。だ。
この村に、かくまわれているのだろうか?
そう考えて、すぐに打ち消す。
村人たちの反応を考えると、そこまで決定的なことを握っている風には思えなかった。だからこそ夢幻もあまり深く踏み込まなかったのである。
だが、そうなってくると、女がわざわざこの村の近くまで痕跡を残した意味がますますわからなくなる。この村のどこかに、手がかりはあるはずなのだ。必ず。
ふと、夢幻の視界の隅に人影が引っかかった。
人影は酒場の、裏手の方から出てきたように思えた。
そうして、それはまっすぐに夢幻の方へ歩いてきた。
「あんたに話があるの。ついてきて」
言葉がかけられたのは、辛うじて声が聞きとれる距離から。当然、闇に紛れて相手の顔は見えない。それでも、ふっくらとした小太りのシルエットや、硬いながらも聞き覚えのある声から、昨晩夢幻が泊まった宿屋の女将であることがわかる。宿屋は酒場に併設されているため、現れた位置も不自然ではない。
だから、夢幻は警戒しながらも特に何も聞かず。誘われるがまま宿屋へと入った。
宿屋の裏口から通された部屋は、どうやら居住スペースのようであった。
四人掛けのダイニングセットと、食器棚が一つだけ置かれた、生活感が漂う狭い空間。
女将はダイニングの椅子に腰かけると、目配せだけでその向かい側の椅子を夢幻に進める。
テーブルの上には、一人前の食事が用意されていた。
「心配しなくても、毒なんか入っていないよ。お代もあの子からいただいているし、遠慮なく食べていきなさい」
躊躇する夢幻に、女将はそう声をかける。
昨晩この宿に泊まる際に話した時は明朗快活、世話好きなお母さんという印象であった。しかし今、その声色は硬く、夢幻の存在を快く思っていないことは明らかであった。
それでも、夢幻を招き入れたのは。
「あの子……」
反芻する。
それが、夢幻の探している女であるということは、一目瞭然。
「本当は、話したくないのだけれどね」
女将は、不快感を隠そうともせず、吐き捨てる。
「あの子なら、森の奥にいるわ。そう、貴方が彼女に会った森のね」
それが、彼女の意図。
「そうか。教えてくれて、感謝する」
だから、女将にお礼を告げてから食事に手を付ける。この状況を考えると、どうせお代は夢幻の財布から出ているのだろう。残しても女将が困るだけだろうし、遠慮する状況ではない。
沈黙の中、夢幻は淡々と箸を進める。
食器がもうすぐ空になる頃、ずっと黙って食事をする夢幻を見つめていた女将が、躊躇うように口を開いた。
「あんたの目にはどう映ったかわからないけれど、あの子は悪い子じゃなの。私があんたのことを信用していないように、あんたもあの子のことが信用できないかもしれない。だけど、それでも、あんたがあの子のちからになれるというのなら……あの子のことを、お願い」
それは、ものすごい葛藤の末に出た言葉であろう。
それでも、伝えずにはいられなかった。それだけ彼女は。きっと、この村の人々も。あの女のことを大事に思っている。そう感じられた。
だが、夢幻には彼らの事情も女の事情もわからない。今の夢幻にとっては、あの女はただの泥棒でしかない。
「ごちそうになった」
綺麗に食事を片付けて、夢幻は立ち上がる。
「一応、一晩の宿代もいただいているけれど、その様子だとすぐに行くみたいね」
「あまり待たせるのもよくないだろうからな」
今から向かえば、森に着く頃には夜明け近くになるはずだ。森を散策するには丁度良い時間帯である。
そしてそれは、女将の願いに対する精一杯の答えにもなる。
「なら、これは返しておくよ」
夢幻の意図を察したのだろうか。女将は、先ほどより幾分か柔らかい表情でひとつの袋を夢幻に手渡した。手触りだけで中身がお金であることが理解できる。女が先払いしていった宿代であろうことは容易に想像がつくが、宿代にしてはあまりにも多い。
「心配しなくても、食事代の分は引いてあるわ。私はこれ以上もらう必要ないから、あの子に返してあげて」
夢幻の困惑に気付いた女将が口添えする。
もちろん、夢幻の困惑の原因は女将が思った理由とは違う。このお金の出所は間違いなく夢幻の財布だ。そして、この量から考えてほぼ全財産が入っている。
それを理解した夢幻は、女将に深く一礼してから袋を懐へしまった。
あとは振り返ることなく、宿屋の裏口から表に出て、そのまま村をあとにした。
その後ろ姿を、村人たちがひっそりと。不安そうに見送っていた。