夢幻1 第一章 出会い 二

「ここまで来れば、大丈夫か」

 森を抜け、街道まで出たところで、ようやく夢幻は足を止めた。
 振り返り、森の入り口を見る。
 来た時と同じく、広がるうっそうとした木々。そこに、動くものの姿は見当たらない。

 ふう。

 安堵のため息をもらす夢幻の耳元で、訴えかけるものがあった。

「大丈夫なら、そろそろ降ろしてもらえないかしら」
「あ、ああ。今降ろす」

 女の足では魔物から逃げきれないと判断した夢幻は、女をかつぎ上げて走っていたのである。
 夢幻が手を離すと、女は意外にも軽い身のこなしで地面に着地した。
 そこで初めて、夢幻は女の姿をきちんと見ることになる。
 年は夢幻と同じくらいか、やや下か。成人はしているだろうが、まだまだ若い女性だ。
 綺麗な亜麻色の髪がふわりと肩にかかり、意志の強そうな瞳は深い青色。化粧気はないが、整った顔立ちをした、目を見張るような美人であった。
 身にまとっている衣服は、白い布地の上に鮮やかな布地を重ねた軽装。その丈は短く、白く細い腕や脚がむき出しになっている。

 そして、女は手ぶらであった。

 常識的に考えて、一人で森の中に入る格好ではない。あまりにも無防備すぎる。
 そう気づいた夢幻の口から出たのは、驚きや疑問ではなかった。

「こんな物騒なところで、女性が丸腰で一人歩き。お前は自殺志願者か」

 冷たい怒りを秘めた、きつい口調。

「今回はたまたま助かったが、俺が通らなかったら今頃どうなっていたか。それすら理解できないほど愚かではないだろう?」

 困惑する女に対して、反論も許さない。
 けっして、声を荒げたりはしない。だけれども。だからこそ、その言葉は鋭く突き刺さって。
 女は目を伏せ、うつむく。その肩が、わずかに震えていた。
 言いすぎた。そんなことに、今さらながら気が付く。

「すまない。言いすぎた」

 慌てて頭を下げ、謝罪の言葉をのべる。
 元々人付き合いが得意な方ではない。その上、相手が女とあっては、どうも対応に困る。
 それでも、夢幻の誠意が伝わったのか。いつまでもうなだれていても仕方ないと思ったのか。女は、恐る恐る顔を上げた。

「ごめんなさい。その、私もこんなことになるとは思っていなくて……」

 か細い声でそこまで言って、女の表情が軽い驚きに変わる。

「血が出ているわよ」

 伸ばされた指先が示すのは、夢幻のこめかみのあたり。
 触れてみると、確かにぬるりとした感触があった。

「あの時のか」

 最初に女をかばった時に、魔物の爪がかすめていたのだ。逃げるのに必死で全く気にならなかったが、言われてみれば確かにじんとした痛みがあった。

「見せてみて。助けてもらったお礼に、手当てしてあげるわ」

 女は、先ほどまでのか細い声とはうって変わって。押しの強い調子で夢幻に詰め寄ってきた。

「いや、ただのかすり傷だ。じきに出血も止まるだろうし、それにはおよばない」

 思わず一歩下がって拒否するが、女はそれを許さない。

「何を言っているの。小さい傷だからって、軽視しちゃだめよ。化膿したらどうするの。ほら、そこに座って」

 強引に夢幻の腕をつかみ、道のはしにある切り株に座らせようとする。

「わ、わ、わかったから引っ張るな」

 夢幻は、すっかり女のペースに乗せられてしまっていた。

「確かに、傷はそんなに深くないわね。出血はまだ完全には止まっていないけれど、これなら消毒して薬をつけておけばすぐに良くなるわ」

 女は、自分の服が汚れるのも気にせずに流れた血をふき取り、慣れた手つきで夢幻の傷口の様子を見る。
 確かに、自分で確認することができない位置の手当てをしてもらえるのはありがたかった。女の手法を見る限り、処置の方法にも問題はない。むしろ、十分すぎるくらいだ。

 しかし。

「薬草を余分に採っておいてよかったわ。少ししみるかもしれないけれど、我慢してね」

 腕に巻いていた布を水に濡らしながら言う女の言葉を、夢幻はやや動揺しながら聞いていた。
 頭を抱えられることで、嫌でも押し付けられる柔らかな女の感触。その衣服は胸元が大きく開いていて。つまり、目のやり場に困る。

 これだから女は……

 女は、夢幻のそんな思いには気が付かない。薬草を浸した布を夢幻の頭に当て、しっかりと抱え込んでくる。
 夢幻の視線は所在なくさまよっていたが、ふと、視界の隅に何かが引っかかった。

「それは……」

 思わず、声に出してつぶやく。
 そこには、水色の石が揺れていた。
 女の首にかけられたチョーカー。そこからぶら下がる石は、ダイヤ型をしているものの形はいびつで、素人目に見ても宝石としての価値はなさそうである。だが、こんなにも深く、透き通った水色のきらめきは、見たことも聞いたこともない。
 そうであるにも関わらず、夢幻は何か懐かしい。不思議な感覚を覚えていた。

 自分は、この石を知っているような気がする。

「これ?」

 夢幻の独白に対して、女は片手でそっと石をなでて言葉を返す。

「大事な人の形見の品……ってところかしらね」

 さらりとした口調の裏に感じる、微かな寂しさ。

「すまない。気にしないでくれ」

 だから、頭を下げる。

「気を使わなくてもいいわよ。それより、あんまり頭を動かさないで。やりにくいわ」

 言葉通り、やりにくかったのか。それとも、他に思うところがあったのか。女は、やや乱暴に夢幻の頭を押さえつけて処置を続けた。
 強く押さえつけられた息苦しさ。傷口に薬液がしみる痛み。そんなことが気にならないほどに、夢幻の頭の中は石のことでいっぱいになっていた。

「はい、おしまい。そんなに心配いらないとは思うけれど、あんまり無茶しないようにね」

 声とともに背中を軽く叩かれたことで、処置が終わったことに気付く。

「その。わざわざ手当てしてくれてすまない。少し休んだら行こうか。村まで送ろう」

 お礼。という訳ではなく、元々そのつもりであった。
 あのような事件があったばかりでは女も不安だろうし、時刻はすでに夕刻。こんなところに女性を一人にしてよい時間ではない。加えて、夢幻にとっても森に戻るには遅すぎる時間である。森の魔物たちを刺激してしまったことを考えても、時間を置いた方が賢明だ。そうなってくると、夢幻の行先も自然とこの先の村になるため、手間にもならない。

「お礼を言うのは、私の方よ。助けてくれて、ありがとう」

 その微笑みは、完全な不意打ちで。
 夢幻は、すっかり慌ててしまっていた。

「それにしても、あなたって強いのね。あんなにたくさんの魔物、こんなに簡単に逃げ出せるとは思っていなかったわ。あなた、冒険者なのかしら?」
「ま、まあ。そんなところだ」

 我ながら、自分らしくない回答を返していた。

「あの森は、あなたから見てどう映ったのかしら。私にとってあの森は庭みたいなものなの。それなのに、急に魔物があんなにたくさん現れて、私を襲おうとした。それだけじゃない。魔物たちは、何かにおびえているみたいだった……」

 女は、話し続けていた。
 それも、森の魔物のことを調べようと思っていた夢幻にとってかなり有益な内容だ。しかし、夢幻はその話をぼんやりと聞き流していた。
 ふと、そんな自分に気が付く。どうやら、軽く意識が飛んでいたらしい。

 疲れているのだろうか。

 そう思った夢幻は、軽く頭を振って眠気を飛ばそうとした。
 しかし。
 軽い浮遊感。対照的に、重くなっていくまぶた。
 そんな感覚が、加速度的に増す。

 な……

 声を上げることすらかなわなかった。
 薄れゆく意識の中、目の前に立ち、見下ろす女の姿が見えた。
 かざされた右手。微笑みを浮かべているにも関わらず、その表情には感情が感じられない。
 そして。

「心配しないで。魔物除けの魔法くらい、かけておくから」

 かけられる、優しい声。

「おやすみ」

 それを最後に、夢幻の意識は途切れた。