夢幻1 プロローグ

 夕刻の酒場で、二人の男が向かい合い、話をしていた。

 片方は、年配の商人風の男。もう片方は、若い旅人風の男である。
 二人の口調は終始穏やかで。居合わせた客同士が世間話をしているように見えなくもない。しかし、少し勘の良い人間が見れば、その光景に違和感を覚えるであろう。
 商人風の男は、旅人を相手にするには身なりが良すぎる。一方、旅人風の男は、商人を相手にするにはいささか若く、貧しい雰囲気があった。
 卓の上には食べ物と果実酒、グラスが並べられているものの、手を付けられた様子はない。

 だが、そのことを気に留める者はこの場にはいなかった。

 老朽化の進んだ寂れた酒場に、客は彼らだけであったからだ。
 唯一、この空間に居合わせている者は、この酒場のマスターだけである。が、彼は客を不審がる様子もなく、カウンターの端で酒をあおり、新聞のゴシップ記事を読むのに没頭している。
 それもそのはず。マスターは、この奇妙な二人組の正体を知っていた。
 商人風の男は、裏の商品を扱う闇商人といわれる人物。旅人風の男は、街を渡り歩く盗賊。そしてこの酒場は、彼ら裏の者たちの息がかかった情報交換の場なのである。
 つまり、現在この場にいる者は皆、いわゆる闇組織とよばれているものに属している者たちなのであった。

「とまあ、最近の状況はこんなものですね」

 商人風の男が、穏やかな口調で話を締めくくる。
 それを受けて、ずっと聞き役に徹していた旅人風の男が口を開く。

「計画は順調に進んでいるということだな。何か、俺たちに手伝えることはあるか?」

 その言葉に、商人風の男は唇の端をちょっとだけつり上げて笑う。

「あなた方は、今のままの活動で十分ですよ。正直、最初はたたき上げのならず者たちに何ができるかとあなどっていた部分はありましたがね。まったく、予想以上に助かっています」

 そのしぐさが、彼が本心からほめている時にするものであることを、旅人風の男は知っていた。

「彼が亡くなった時はどうなることかと思いましたが、良い後継者を選んだようですね」
「まあ……な」

 満足そうな商人風の男とは対照的に、旅人風の男はあいまいに言葉をにごす。
 明らかに何かを含んだ、不満がありそうな反応。しかし、商人風の男はあえて何も問わない。余計な詮索をしないのが彼の流儀であり、上手く世の中を渡り歩く秘訣である。

「私はこの辺でおいとまさせていただくよ。君の仲間たちにも、よろしくお伝えください」

 商人風の男はそう言い残して、足早に酒場から去って行った。

 残された旅人風の男は、面白くないといった表情を隠そうともせずに、酒場の扉からテーブルの上に視線を移す。
 そうして、並べられた料理に手を付け始めた。
 食欲がある訳でもないし、まともな商売をする気のないこの酒場の料理は正直不味い。しかも、長話をしているうちにすっかり冷め切ってしまい、まともに食べられたものではない。それでも手を付けずにいられないのは、貧しい育ち故の勿体ないという思いからなのか。
 それとも……

「飲むかい?」

 短くかけられた言葉に、旅人風の男は顔を上げる。
 ずっと一人で酒をあおっていたマスターが、酒瓶を掲げて旅人風の男に視線を投げかけていた。
 人懐っこい表情を浮かべたマスターの瞳と、旅人風の男の目が合う。
 しかし、それは一瞬のこと。
 旅人風の男はすぐに目をそらし、再び視線をテーブルに戻した。

「遠慮しておく。今はそんな気分じゃない」
「まったく、あんたにも困ったもんだね。そんなに彼女が気に入らないかい?」
「……」

 マスターの問いに対し、返事は返ってこない。

「ま、これはあんた自身の問題だ。俺がとやかく口出しするつもりはないさ。さてと、俺はちょいと倉庫の方に行ってくるから、少し店を頼む。何かあったら呼びに来てくれ」

 マスターは旅人風の男の態度を気にした様子もなく、そう言い残して店の奥へと引っ込んでしまった。

 そうして、小さな酒場に旅人風の男だけが取り残される。

 それは、彼が一人になりたいだろうと思ったマスターの最大限の心遣い。だけど、当の旅人風の男にはそれに気付き、感謝する余裕なんてなかった。
 ただ黙々と。上の空で食事を続ける。
 だけど。その動きも長くは続かず。不意に、手が止まる。
 旅人風の男は、苦しげな声でぽつりと独白した。

「別に、気に入らないって訳じゃないさ」

 それは、無意識のつぶやき。
 自分でも、何を口走ったのか。理解できていなかった。
 ただ。言葉を発したことにより、喉の渇きに気が付く。
 一切の水分を取らずにまずい料理を口にし続けたこともあり、口の中が妙にねばついて気持ち悪い。
 たまらず、果実酒の入った瓶に手を伸ばす。

 そこで、旅人風の男ははっとした。

 いつの間にか。自分の横に人影があった。
 やや高めの背丈の、痩せた男。無遠慮に顔を見つめてみるが、とりあえず知った顔ではない。

「誰だ」

 身を固くして、低い声で誰何する。

 この男。ただ者ではない。

 旅人風の男は、瞬時にそう理解した。
 彼は、若いながらも周囲からの評判も高い腕の良い盗賊である。上の空であったとはいえ、そんな彼が、男の入ってくる気配に全く気が付かなかったのである。
 旅人風の男は、警戒を強めて痩せた男の返答を待った。
 しかし、痩せた男は、無言で旅人風の男を値踏みするように見つめ続けるのみ。
 その威圧感に、旅人風の男の背に、知らず汗がにじむ。

 そのまま。どの位、沈黙の時が流れただろうか。

 旅人風の男が緊張に耐え切れずに、グラスを取り落とす。
 そこで、ようやく痩せた男は口を開いた。

「お前の望みを、かなえてやろう」