第四章 闇の石 一

「シュンはね、ウリルのことが好きだったの」

 サシャが呟く。歌うように。囁くように。
 もう動くことのないシュンの頭を膝の上に乗せて、優しく撫で続けている。
 その身体は急速に冷たくなっていき、血液も、それ以外の体内に収まるべきものも、あふれてこぼれだしている。サシャの白くて細い指も。薄い布地の衣服も。柔らかな薄茶色の長い髪も、赤黒く染まっていく。

 それでも。

 サシャは、全く気にすることなく撫でる動作を続けていた。
 何度も。何度も。
 涙はなかった。ただただ、穏やかな表情で。機械的に。手だけを動かし続けていた。
 その様子を、ウリルは一歩下がった位置で見つめていた。
 右手に、今際の際にシュンに渡されたショートソードを握り締めて。何をするでもなく。何かを言うでもなく。無表情で立っていた。
 傍から見れば、異様な光景であろう。
 しかしその異様さこそが、シュンの死の衝撃が大きかったことを物語っていた。

 最期に、身を挺してウリルをかばったシュン。いつだって文句を言い、反発していた。嫌われているとばかり思っていた。疎ましいと思われていると思っていた。それなのに。サシャは、シュンがウリルのことを好きだったと言う。だけど。だけどもう、シュン本人の心の内を聞くことは叶わない。
 サシャにとっては、唯一の肉親だろう。長い時間、手と手を取り合って生きてきたはずだ。特に、サシャに対するシュンの溺愛ぶりは異常なほどであった。
 二人とも一切の泣き言も漏らさなくたって、その心中が穏やかではないことくらいわかる。

 夢幻は、そんな二人に背を向けて言った。

「少し、様子を見てくる。二人はここで待っていてくれ」

 返事はなかった。
 二人には、気持ちの整理をつける時間が必要だ。邪魔をしないためにも、ここはそっとしておくべきだろう。そう思い、夢幻は一人静まり返った廊下に出る。

 だけど、それは建前。

 夢幻は、僅かな感覚に気が付いていた。
 それは、最初からあった想定。
 結び付く根拠と事実が足りず、様子をうかがうしかなかった事案。
 それがようやく確実に、はっきりと捉えられる。
 廊下を一歩。奥へ進む度に確信を持てる。
 そして。
 ここまで来れば、誰でもこの空気が異質なものであると理解できる。
 空気の重さ。そこにいるだけで吐き気がこみ上げてくる感覚。本能的な部分が、ここにいてはいけない。この先はやばい。そう、警鐘を鳴らす。
 しかし夢幻は、足を止めない。
 重苦しい感覚に顔をしかめながらも先へ。先へと、歩を進める。

 やがて、目の前が開ける。

 全ての照明が落とされ、薄暗い部屋の中に乱雑に並ぶ机と椅子。どうやら、夢幻が最初にこのアジトに招かれた時に通された部屋のようである。
 談話室と食堂を兼ねているらしいこの部屋は、おそらくこのアジトの中でも最も広い空間だろう。そして、その部屋の中央。丁度、机と椅子の切れ目となっている空間に、それは在った。
 地面から一メートルほどの高さ。何の支えもなく、宙に浮かぶそれは、何かの鉱物のように見える。
 黒い。どこまでも深い。深淵のような黒。しかし、暗闇の中にあってその存在ははっきりと視認できる。
 それは、黒い光を放っていたから。
 深く、禍々しい黒い光。だけどそれは、暗闇の中で眩しいほどに輝いていて。

「闇石……」

 大陸警備機構では、黒く光るその石をそう呼んでいる。
 闇の中でもなお深い。だけど眩しい闇。その闇色の光が放つものは、瘴気。近付くだけで身体は変調をきたし、理性は狂う。そして、異形のもの。魔物へと半ば強引に姿を変えさせられる。
 こうして少し離れた場所に立っているだけでも瘴気による吐き気、耳鳴りが酷く、夢幻も近場の壁に寄りかかって身を支えて、やっと立っていられるような有様である。

 だが、夢幻はただそれを見に来た訳ではない。

 逡巡は一瞬。すぐに腰に差した長剣を引き抜く。そして、部屋の中央にある「それ」を見据え、足を踏み出す。
 前述のとおり、「それ」は近付くだけで魔物と化してしまう石だ。夢幻の行為は自殺行為に見えるだろう。
 ところが。
 夢幻は数年前、ある事件により闇石に近づくこととなり、どういう訳かそれを破壊し、生還した。
 何故夢幻だけが魔物化の影響を受けることがなかったのか。それは未だに謎である。だた、確かなことはひとつだけ。現状、夢幻だけが闇石に対抗しうるということ。だからそれ以来、必然的に夢幻には闇石の調査及び破壊が最重要任務として課せられることとなった。
 とはいえ。
 夢幻とて無事生還できたというだけ。決して、易々とそれを成し遂げた訳ではない。
 瘴気による重い圧迫感。めまい。吐き気。耳鳴り。容赦なく襲いかかるそれらに耐え、一歩。また一歩と、ゆっくりと歩みを進める。
 不意に、頭部にちりっとした痛みが走る。昨日受けた傷が開いたのだろう。いつものことだ。むしろ、今の夢幻にとってその程度の痛みでは、足りない。
 徐々に不快感が収まってくる。慣れた訳ではない。意識が遠ざかっている。

「……っ」

 そのことに気が付いた夢幻は、とっさに自らの右腕を手にした長剣で刺した。
 力が入らず軽く刺しただけであるが、瘴気の影響によって傷口が一気に広がる。鮮烈な痛みに、意識が現実に引き戻される。

 時間をかけては危ない。
 苦痛を感じなくなったら、負け。

 今までの経験から、夢幻はそれを知っている。
 案の定、いつの間にか床に膝をついていた。痛みついでに気合を入れ、立ち上がる。
 近づくほどに瘴気は一層濃くなり、夢幻を拒むように黒い嵐となって襲いかかる。長い髪とローブが風にあおられ、全身を切り刻まれるような痛みが走る。それでも、夢幻は歩みを止めない。一歩。一歩。ゆっくりと、確実に歩を進める。

 そうして。ようやく、そこへたどり着いた。

 こぶし大程度の大きさの無骨な石が、夢幻の腰ほどの高さで浮かんでいた。
 夢幻は、すでに限界であった。
 瘴気によるめまいと全身を蝕む苦痛と闘いながら剣を構えるものの、なかなか照準が合わない。
 それでも、無理に自分の身体を叱咤し、集中する。ただひたすらに、黒い光の、石の中心に……

 ここだ!

 照準が合った後は、一瞬。
 夢幻の振り下ろした剣先が石に触れる。たいして力をこめていないにも関わらず、石は粉々に砕け散る。
 それで、全てが終わった。
 黒い光は消え、辺りに立ち込めていた瘴気も霧散し、晴れていく。

「はあ……はぁ……っ」

 夢幻は剣を下ろした勢いのまま、その場にくずおれた。
 瘴気が晴れたからといって、それによるめまいや吐き気がすぐに治まるものでもない。うずくまり、必死に息を整える。こみ上げてくるものを、必死に飲み込む。
 そうしながら、懐から袋を取り出し、粉々に砕けた石の欠片を集めて入れて、厳重に封をする。本部の研究チームに解析してもらうためだが、今のところ、壊れて無害になった石の欠片からは、何もわかっていない。

 そこまでの作業を終えて。
 ようやく、夢幻は気を緩めた。
 乱雑に散らばった椅子に、倒れるように寄りかかる。頭部と右腕からの出血が身体を濡らしていて。適当に応急処置を施しておく。しかし、そのあとすぐに立ち上がろうという気が起こらない。
 身体は十分に鍛えている。旅にも慣れた。だけど、この作業だけは何度こなしても慣れることはない。それほどまでに、辛い作業である。
 そうまでして、この任務に就く必要があるのか。
 そう思う者もいるだろう。しかし、夢幻はこの任務と引き換えに得たものがあった。
 旅をする自由。
 それは、夢幻の目的を果たすために欠かせないこと。

 失った少女を探す。

 そう心に決めたのは、いつのことだっただろうか。
 生きているのかすら定かではない。だけど何故か、夢幻は探そうと思った。
 それが、自分が今生きている意味なのかもしれないから。

 どのくらいそうしていただろうか。

 不意に。辺りが明るくなったのを感じて、夢幻は瞳を開く。
 いつの間にか、うとうととしていたらしい。

「こんなところに座り込んで、何をしているの?」

 そんな声がかけられて、顔を上げる。
 宙を漂う光の球に照らされて。端正な顔立ちの無表情が夢幻を見下ろしていた。
 ウリルである。
 後ろには、サシャの姿もあった。

「少し休憩していただけだ。そっちはもう、大丈夫なのか?」

 見たところ、二人とも落ち着いているように見える。しかし、親しい者を亡くして立ち直ることがどれだけ大変か。それを理解できない訳ではない。
 夢幻の問いに答えたのは、サシャであった。

「はい……今は生き残ることが大事ですから」

 吹っ切れた。という訳ではないだろう。
 ただ気丈に。現在を。事実をあるがまま受け入れた。そして、まっすぐに前へ進むことを選んだ。サシャの表情からは、そんな決意が感じられた。見た目以上に強い人間である。いや、もしかしたら、過去にもつらい経験を繰り返したのかもしれない。
 ウリルは何も答えない。ただ、その腰に一振りのショートソードがぶら下がっていた。細やかな装飾の入った金色の鞘。細身の持ち手。シュンから受け取った物だ。ウリルという人間にとっては、それこそが今回の出来事を乗り越えようとする証なのだろう。

「そうか。なら、先を急ごう」

 二人がこの様子ならこの場にとどまる必要はない。
 夢幻は立ち上がった。軽い立ちくらみを感じ、目をしばたたかせてやり過ごす。まだ不快感は残っているが、少し休めたこともあって動けないほどではない。
 それでも、多少無理をしているように映ったのだろうか。サシャが声をかけてきた。

「大丈夫ですか?少し、顔色が悪いみたいですが」
「ああ。少し寝不足気味だからだろう。慣れているし、問題はない」

 間違ってはいない。結局今回の件でほぼ丸二日眠っていないのは事実だし、それくらいは夢幻にとって珍しいことではない。
 そう、慣れている。これくらい。
 サシャは心配そうな表情のままではあったが、それ以上突っ込んでくることはなかった。

 

 先頭に夢幻。しんがりにウリルと、最初と逆の並びで廊下を歩く。
 道中。二体ほど魔物と遭遇した。どちらも小柄で、元は年若い少年たちであっただろうことは明白である。しかし、一度魔物化してしまった者が元に戻ることはない。たとえ、闇石を破壊したとしても。
 だから夢幻はなるべく苦痛を与えぬよう、彼らを一撃で葬った。更にウリルがさりげなくサシャの視線を遮るように前に出て、その遺体を燃やしていく。
 そうして進んでいくうちにやがて、目の前にうっすらと光が見えてきた。それは、自然の陽の光。いつの間にか、夜が明けていたようだ。

 これでようやく脱出できる。

 闇石も破壊できた。あとは、ウリルとサシャを村まで送り届けてから一番近い機構の支部に後始末を頼みに行く。それで、今回の件はおしまい。

 だけど。

 光に近づくにつれて、強い違和感。
 夢幻の警戒を感じ取ったウリルが、サシャの腕をつかんで引き留める。
 夢幻だって、自信がある訳ではない。だが、今まで見てきたもの。状況。そして、この嫌な予感。

 警戒を解いてはいけない。

 本能と経験がそう告げる。
 だから夢幻は、腰に差した長剣をいつでも抜けるように身構える。

「そこにいるのはわかっている。姿を見せたらどうだ」

 呼びかける。反応はない。
 だが、夢幻は動かなかった。辺りを警戒したまま、ただ、それを待つ。

 どのくらい待ったであろうか。

「気付かずにいれば楽に死ねたものを」

 低く抑えた声。差し込む光を遮るように、立ちふさがる影。
 その声。背格好。顔がよく見えなくたって、はっきりとわかる。夢幻が、そして恐らくはウリルも予測していた人物。
 それを肯定するかのように、夢幻の後ろからウリルがその名を呟く。

「キース……」