第一章 出会い 三

「夢幻!またこんなところでサボって!」

 頭上から降り注ぐ、鈴を鳴らしたような愛らしい声。
 その声に少年は、閉じていた瞳を薄く開いた。
 視界に飛び込んできたのは、うたた寝をしていた少年にとっては、まぶしすぎる陽の光。そして、それよりもさらにまぶしいほどの赤。
 少年は幾度か目をしばたたかせてまぶしさに目を慣らしてから、ようやく幼なじみの少女の名をつぶやいた。

「美琴……」

 陽の光にきらきらと輝く、原色の赤い髪と、赤い瞳の少女。
 少年にとって、陽の光以上にまぶしい存在。
 少女は、腰に手を当てて、少年の顔を上からのぞきこんでいた。

「おじさんたち、探してたよ?毎日こんなところでぼーってしてばかりいないで、たまには手伝いくらいしなさいよ」

 お姉さんぶった口調で説教を始める少女は、少年よりもずっと小柄で顔立ちも幼く、その姿はどう見ても迫力に欠けている。
 それでも、少年にとって少女は確かに姉のような存在であった。少女にとっても、それは変わらないであろう。

 だけれども。

「何を、考えていたの?」

 自身の渾身の説教に何の反応も示さない少年に対して、切り口を変えようと思ったのか。少女は、少年の隣に腰を下ろし、そんなことを聞く。

「別に、何も」

 何も考えていない訳じゃない。ただ、それを口に出すのが気恥ずかしくて。少年は、ぶっきらぼうに言葉を返すと、ごろりと少女に背を向けた。

 二人の暮らす村は、森の中にあった。
 外界との交流は一切ない。平穏で、ただただゆっくりと時間が流れる村。
 村人たちはみんな顔見知りで。日々、自給自足の生活を送っていた。
 知らない人が村を訪ねてきたことはなく。村の人間は外に出る機会はおろか、外の世界があるなんてことすら、知る由がなかった。
 ここに住む者にとって、自分にとって、それは当たり前のこと。

 いつからだろう。

 自分が、そんな暮らしに違和感を覚え始めたのは。

 だけれども。
 何も知らなかった自分には、その違和感の正体がわからなくて。その思いを、誰かに伝えるすべがわからなかった。
 だからこうして、訳も分からず全てのことに反抗して。森の中を流れる小川のほとりで一人、ぼーっと過ごしていて。
 そして、そんな少年を探して幼なじみの、姉代わりの少女がやってくる。

 それがいつもの、変わらない日常。

 少年は、一度は背を向けた少女の姿に、再び視線を向ける。
 少女は、少年に背を向けられたことに対して気にした様子はなく。ただ隣に座ったまま、見慣れた森の風景をながめていた。
 木々の間を通り抜けるそよ風が、少女の短い赤い髪を揺らし、少女は心地よさそうに目を細める。
 いつしか、少年はその横顔に魅入っていた。
 物心つく前から、ずっと側にいた存在。年の近い他の知り合いがいない少年にとって、唯一心を許せる存在。いつも世話をやいてくれる、姉のような存在。

 だけど、今はもっと違う何か……

 こんな気持ちを抱くようになったのは、いつからだっただろう。
 この、切ないような。もどかしい想いは、何なのだろう。

「美琴」

 たまらなくなって、その名を呼ぶ。

「なあに?」

 澄んだ声と共に、少女が振り向く。
 きらめく赤い瞳と、目が合う。

「いや、なんでも……ない」

 いつも見ているはずの、仕草。見慣れているはずの、その瞳。聞き慣れているはずの、その声。
 それなのに、何故かどきりとしてしまい、言葉が続かない。

「夢幻ったら、最近変ね」

 動揺する少年の姿に、少女はくすりと笑う。
 少年の気持ちに、少女は気付く由もない。

 ……気付いてほしくもない。

 だから、少しふてくされた調子で話題を変える。

「そんなことより、そろそろ行かなくていいのか?今日もお勤めがあるんだろう?」

 その言葉に、少女はあっさりとうなずき、立ち上がる。

「そうね。そろそろ行かないと」

 少女は、この村を護っているといわれている竜神様にお仕えする、唯一の巫女であった。
 毎日、決まった時間に村のはずれにあるほこらにお勤めに行かなければならない。とはいえ、少女がそこで何をしているのかまでは、少年は知らない。
 行くように促したものの、少年は少女がお勤めに行くことを快く思えなかった。その間、少女が少年の手の届かない場所に行ってしまうから。
 本当は、ずっと一緒にいたい。だけど、自分が独占できる存在じゃない。わかっている。だから……だけど……

「気を付けて」

 葛藤する心は、気が付くと訳の分からないことを口走っていて。

「毎日のことだもの。気を付けることなんて何もないわ」

 笑われる。

 だけど。

「夢幻」

 少年の名を呼ぶ赤い瞳は、何かを伝えたそうに揺らいだ。

「ん?」

 予想していなかった呼びかけに、少年は思わず上体を起こす。

「ううん……ありがとう」

 少女は、柔らかくほほえみ。振り切るように首を横に振る。そうして、何事もなかったかのように少女はその場を立ち去った。
 残された少年は、ずっと。完全に見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめ続けていた。

 風になびく短い髪の赤と、裾に金色の刺繍が入った巫女装束のスカートの赤だけが、いつまでも鮮明に記憶に残っている。

 

 ゆっくりと、目を開く。

 視界に飛び込んできたのは、茜色に染まった夕方の空。
 あの頃の光景とは、空の色も。辺りに生えた木や草の種類も違う。そして、夢幻自身も。あの頃の、何も知らなかった少年ではない。

「夢……か」

 そんなことは、わかっていた。それでも、声に出してつぶやかずにはいられなかった。
 上体を起こし、目の前で手のひらを何度か握ったり開いたりしてみる。
 今、現実にいるということを確かめるように。

 昔の夢。

 時が流れ、頻度は少なくなったものの、それでも時折見る鮮明な夢。

 幼なじみの少女。
 彼女に抱いていた想いは、何だったのだろうか。
 淡いあこがれ。恋心。客観的に見れば、そういったものになるのだろう。しかし、夢幻は今でもその想いを確信することができないでいた。

 あの後。彼女が戻ってくることはなかったから。

 何の前触れもなく。なんの痕跡もなく。彼女は、あの日突然。村から姿を消した。
 夢幻は、彼女を。自分の想いの答えを探すために、外の世界へ飛び出した。

 そして……

 夢幻は、そこで考えるのをやめた。想いを振り払うように、軽く頭を振って立ち上がる。今は、郷愁に浸っている場合ではない。
 辺りを見回し、状況を確認する。
 自分のすぐ隣に、座っていた切り株がある。更にその隣に、自分の荷物の入った背負い袋が、自分で置いたままの形で置いてあった。
 そう時間が経っていないのは、陽がまだ落ち切っていないことからわかる。
 だが、一緒に居たはずの女の姿はない。
 意識が落ちる前のことを思い出していく。
 目の前に立つ、女の姿。にこやかな微笑みを浮かべながらも、冷たく光る深い青色の瞳。まっすぐに突き出された右手。そして、加速度的に落ちていった意識……。

 睡眠魔法。

 その結論に至るのは、難しいことではなかった。
 おぼろげな意識の中、魔法という単語を聞いたような気がする。女が魔道士だとすれば、睡眠魔法位は使えて当然であろう。
 魔法は、生まれつき魔力という力を持った者のみが使用することができる不思議な現象である。その効果は多種多様であり、睡眠魔法のような生物の精神に働きかけるものから、自らの腕力を底上げして重いものを持ち上げるもの。そして、力の強い者であれば、炎や氷を出すことさえできる。
 そんな中でも睡眠魔法は初歩的な魔法といわれ、多少の魔力さえ持っていれば発動自体は簡単にできる。もっとも、初歩的な魔法なだけにその効果は術者の技術や魔力量によるところが大きく、受ける側も鍛えることで抵抗することが可能である。夢幻は魔力こそ持っていないものの、魔法に抵抗するための訓練は受けている。相手がよほど強い魔力を持った魔道士でない限り、睡眠魔法程度なら抵抗できる自信があった。
 だが、夢幻はあっさりと眠ってしまった。
 あの女が、それだけの魔道士だったのだろうか。

 いや、違う。

 夢幻が眠気を感じ始めた時、女はまだ魔法を使っているようなそぶりを見せてはいなかった。つまり、魔法自体は最後のひと押し。直接の原因は恐らく、傷の手当てをしてもらった時。あの時に何かを仕込まれていたのだろう。油断したとしか言いようがない。

 しかし一体、何のために?

 はっとなる。
 確かに、置いてある背負い袋に手を付けられた様子はない。だが、そこに入っている物は旅に必要な道具や保存食の類だけだ。本当に大事なものは……。

 ない。

 マント代わりに羽織っているフード付きローブ。その内ポケットをまさぐって、夢幻は青ざめた。
 他の全てのものがそのままの中で、そこに入っていた財布だけが、なくなっていた。

「……やられた」

 全く、そんな素振りを見せなかった自然な言動。財布だけをピンポイントで持っていくやりくち。手慣れている。あの女は恐らく、プロの盗賊だ。
 財布の中にはお金だけではなく、大陸警備機構の身分証が入っている。あれがなくては仕事ができない。
 何より、身分証を盗まれたと知れたら、上司に何と言われるか。
 あきれた表情の上司にねちねちと小言を言われる自分を想像して、夢幻は思わず身震いする。

「くっそ……大陸警備機構をなめるな」

 時間的にそう遠くまで行っているとは思えない。
 夢幻はローブを羽織り直して、真剣な面持ちで辺りを捜索し始めた。