第一章 出会い 一

 森の中に、一人の男が立っていた。

 頭の高い位置でひとつにまとめられた、長い銀色の髪。油断なく辺りを見すえる紫水晶の瞳。黒服の上に、紺色のフード付きローブを、そでを通さずにマントのように羽織った長身。
 そして、左手に抜き身の長剣をぶら下げていた。

 突如。

 男が、背後に向かって長剣を閃かせる。
 その一撃は、背後から男に襲いかかろうと飛びかかってきたものを的確に捉える。腹部を切り裂かれたそいつは、「ぎゃっ」という悲鳴と共に木の幹に叩きつけられて、どさりと音を立てて地面に倒れ込んだ。
 広がっていく赤黒い液体。ぴくぴくとけいれんする四肢。四足歩行のそれは、狼や犬の類に見えなくもない。しかし、見開いたままの瞳は赤く血走り、だらしなく開きっぱなしになった口からはよだれと共に、胸の辺りにまで達するほどに長く鋭い牙が伸びていた。
 何より、全身に生えた棘のような鱗が、そいつの異常さを如実に物語っていた。

 それは、自然界の常軌を逸した異形の生き物。魔物と呼ばれる存在である。

 魔物は、幾度かけいれんを繰り返した後、完全に動きを止める。
 男は、魔物が動かなくなってからもしばし、観察するように見つめて。やがて、ぽつりとつぶやいた。

「どうなってるんだ。この森は」

 男の名は、柊夢幻。
 大陸警備機構という組織に所属し、任務の旅の途中であった。

 この森は、目的地に向かう途中のただの通り道。
 そうあるはずであった。

 うっそうと生い茂る木々。地面に落ちる木漏れ日。独特の、湿ってはいるが清浄な空気。
 どこにでもあるような、ごく普通の森。
 しかし、足を踏み入れてすぐに、異変は起こった。
 魔物が襲いかかってきたのだ。
 それも、ひっきりなしに。

 瘴気による変異によって生まれるといわれている魔物は、大地の自浄が進んだ最近ではめっきりその数を減らしている。
 これほどまでに魔物が多いのは、未だ瘴気が濃い、魔境と呼ばれているような場所くらいのものである。
 ところが、この森には一切の瘴気を感じなかった。
 更に、これほどまでに魔物が多いにも関わらず、機構の資料はおろか、近隣の村でも噂になっていなかった。
 状況は、あまりにも不自然であった。

「急激に魔物が増えた……?まさか……」

 視界の隅に何かを捉え、夢幻はそこにしゃがみ込んだ。
 そこには、小動物の死体と思わしきものが、折り重なるように転がっていた。
 ばらばらにされている上に腐敗しきっているため、正確な数すらわからない。恐らくは三から五体。大きさや骨格から、ウサギの死体であることが推察される。

 魔物にやられたのだろうか。

 目を覆いたくなるような凄惨な光景にも関わらず、夢幻はウサギの死体を一体一体子細に調べて回った。
 それは、ほんの小さな異変。だが、それだけで十分。
 異変を感じた死体に、そっと触れる。感じるのは、ウサギには本来ないはずの硬質な突起。それが、この惨劇の原因であることは、ほぼ間違いない。問題は、なぜこのような現象が引き起こされたのか。

 そこまで考えて、夢幻は思考を中断させた。
 微かに。獣のうなり声を捉えたからである。
 耳をすませば、はっきりと聞こえる。何かを威嚇するような、低い声。それも、複数のものだ。

 まさか。

 夢幻の胸中を、嫌な予感がよぎる。
 いくら魔物とはいえ、複数でこんなうなり声を上げ続けるのは、それなりの理由があってしかるべきである。
 見過ごす訳にはいかなかった。

 夢幻は、声の方へ。更に森の奥へと走り出した。

 

 木々が立ち並び、けっして広いとはいえない空間に、獣のようなものがひしめき合っていた。
 先ほど、夢幻が倒した狼に似た魔物に似ている。しかし、毛が完全に抜け落ちてグロテスクな肉塊になっているもの。奇妙な形の角が生えたもの。後ろ足だけがやたらと発達して肥大化したものなど、全く同じ形をしているものはいない。
 共通するのは、明らかに異形のもの。魔物であること。威嚇のうなりを上げ、低く保った姿勢のまま、同じ方向を向いているということ。

 夢幻は気配を殺し、木の影に隠れて様子をうかがった。
 森の中は遮蔽物が多いため、姿を隠すには不自由しない。その一方で、様子をうかがうのも大変である。
 そんな中、夢幻はじっと目を凝らし、魔物たちのさらに奥へと視線をめぐらす。
 それは、一瞬だけ魔物たちの間からちらりと見えて。すぐに埋もれるように見えなくなってしまう。

 だけど、夢幻にとってはそれだけで十分。

 木を背に、魔物と向き合っているもの。それは、間違いなく人間の姿だ。
 魔物たちは警戒して距離を置き、威嚇のうなり声を上げ続けている。そこにいる者が、少しでも気を緩めたら。その瞬間、奴らは一斉に襲いかかるだろう。
 そうなってしまうと、いくら夢幻でも助けに入るのは難しい。
 だから、夢幻はそうなる前にその場から飛び出した。

「お前らの相手はこっちだ!」

 なるべく大きな声で叫び、手近な魔物を一刀で切り伏せる。
 予想外の乱入者に、魔物たちは驚き、固まった。
 その隙を突いて、夢幻は魔物の群れの中へ突っ込んだ。
 邪魔なものだけを切り捨てて、とにかく奥へと走る。
 魔物たちがひるんだのは一瞬だけ。すぐに、乱入者である夢幻にターゲットを切り替えて襲いかかってきた。

 そんなことは、すでに予想済み。

 左右から襲いかかってくるかぎ爪を、姿勢を低くすることで避け、同士討ちを誘発させる。起き上がりざま、今度は正面から飛びかかってきた魔物に長剣を一閃。
 全く無駄のない動きで、夢幻はそこにたどり着いた。

「こっちへ」

 説明している暇はない。
 夢幻は、呆然と立ち尽くすその人物の腕をつかみ、多少強引に引き寄せた。
 深い、青色の瞳と目が合う。

 女……!?

 予想しなかった相手に、夢幻は一瞬動揺した。
 そこに、魔物が飛びかかってくる。
 これも、予想していたこと。だけど、動揺のため、わずかながら反応が遅れた。
 この場では、その一瞬が命取りになる。

「くっ……!」

 予定していた対処では間に合わないと判断した夢幻は、とっさにその場に女を押し倒し、かばうように伏せる。
 魔物の爪が夢幻の頭をかすめ、鋭い痛みと共に銀色の髪が幾本か宙を舞った。しかし、気にしている余裕はない。

「走れるな?」

 それだけ。
 女の耳元で短く言うと、返事を待つこともなく勢いよく起き上がった。その勢いで、長剣を振り上げる。一撃は、夢幻にさらなる攻撃を仕掛けようと飛び込んできた魔物に見事に命中。魔物は、絶命の悲鳴を上げて地面に倒れた。

「行くぞ!」

 有無を言わさず、女の腕をつかみなおす。
 そのまま。
 夢幻は、森の中を全力で走り出した。