窓から差し込む朝日に、男は目を開いた。
 視界に飛び込んでくる景色は、所々がすすけた木の天井。無造作に荷物が置かれた文机。カーテンのかかっていない窓。
 閉業して久しく使われていなかった宿屋を修繕したらしいこの寮室は狭くて簡素であり、普通に生活を営むにはいささか不自由であろう。
 もっとも、この部屋の主が帰ってくることはめったにない。本人もゆっくりと眠ることができればそれでいいと考えているので、この部屋に不満を感じたことは一度もなかった。

 この部屋の主である男の名は、柊夢幻。
 ここ、法治国家コンスティエラの中核を成す治安維持組織、大陸警備機構に所属する「冒険者」である。組織の指示で国内外へ長期の旅に出ることが多く、自宅での起床は約一週間ぶりであろうか。

 少し、寝過ごしたか。
 そんなことを考えながら、夢幻は寝台から身を起こす。
 動きに合わせて、長い銀色の髪がさらりと顔に落ちる。それを無造作に頭の高い位置で結い上げて、陽の光の眩しさに紫水晶の目を細める。
 普段は陽が昇る前に目を覚まし、鍛錬を行うことを日課としている。いくら昨日の帰宅が深夜になったとはいえ、眠りが浅いことが多い夢幻がこんな時間までぐっすりと眠っていたというのは珍しい。
 気が緩んでいるのかもしれない。
 しかし、いつまでも呑気に微睡みを楽しんでいる訳にもいかない。夢幻はベッドから出ようと足を踏み出そうとして、そこで、動きが止まった。
 ベッドと、壁際に設置された机との間の床。その狭い空間に、細長い物体が転がっている。例えるなら、巨大な芋虫のような物体。そいつに床を占拠されているため、足の踏み場がない。
 夢幻は、一呼吸。ため息をつくように息を吐いてから、容赦のない勢いでそれを蹴りつけた。
「起きろウリル。邪魔くさい」
 待つこと暫し。それはもぞもぞと動き、中からひょっこりと人間が顔を出した。
 こぼれる柔らかな亜麻色の髪。線の細い、整った顔立ち。深い青色の瞳は、不満そうに夢幻をにらみ付けている。
「夢幻ちゃん。女の子を足蹴にするのはよくないと思うわよ?」
「誰が女の子だ。寝言はそこから起き上がってから言ってくれ」
 夢幻は呆れた声で言葉を返した。

 この、奇妙な同居人の名はウリル。
 旅先で出会い。とある事件を経て夢幻に勝手について来た。
 容姿端麗。頭脳明晰。元盗賊団の頭にして、人間離れした高位の魔道士。性別、男。
 女物の服を着ていても、魔法で体型を変えていても、言動や立ち振る舞いが完璧な女性のものであっても。事実として、こいつは男だ。
 そうしている事情は夢幻にはわからない。
 そう、半年近くの付き合いになるというのに、夢幻はウリルのことを何も知らない。本名を始めとした、生い立ち。夢幻と知り合うまで何をしていたのか。そして今、何をしたいのか……

「で、俺はここを通りたいんだが、どいてくれる気はないのか」
 更に蹴りを入れるものの、ウリルは全く動こうとしない。仕方なく、夢幻はウリルの身体を踏み付けて移動することにした。体格の良い夢幻の全体重がウリルの細い身体にかかるが、ウリルからは何の反応も返ってこない。踏みつけた感じも、人体を踏んでいる感覚ではなく、もっと弾力と硬質さを併せ持った不思議な感覚がある。魔力で全身を防護しているのだ。夢幻の容赦ない蹴りにも動じないわけである。
 それにしても、邪魔くさい。
 この部屋を狭くて不便と思ったことは今まで一度もなかった。しかしこの時ばかりは、手狭な自分の部屋を不便と感じずにはいられない。
「こんな朝からどこか行くの?」
 苛立ちながら着替え始める夢幻の背中に、ウリルが問いかける。
 振り返ってみると、ウリルはいつの間にか自分のくるまっていた寝袋を片付けて夢幻のベッドに腰かけていた。
 さすがに、自分の周りをせわしなく歩き回られて鬱陶しく感じたらしい。
「本部に報告にな。お前にとって旅は道楽かもしれんが、俺にとっては一応仕事だ」
 夢幻は、そう返しながら壁に掛けてある服を手に取る。濃紺に白いラインの入った大陸警備機構の制服である。旅に出る時は私服であるため、この制服に袖を通す機会はめったにない。その辺に投げ捨ててある夢幻の私服とは対照的にきちんと手入れの行き届いた制服を身につけて、ボタンをかける。腰に着けたベルトの右側に、使い慣れた長剣を差して準備完了だ。
「組織って本当に面倒くさいのね」
 若干けだるそうな声に夢幻が振り向くと、ウリルは夢幻のベッドに潜り込んでいた。
「おいおい、まだ寝る気か」
 朝早く夜は遅い夢幻と共に旅をしているだけあって、ウリルの寝起きはそんなに悪くない。二度寝を決め込もうとするのは、珍しいことだ。
「昨日も遅かったし、寝られる時に寝ておかないとね。……それにしても」
 ウリルは、布団から目だけを出して夢幻の全身を下から上へとながめ回す。
「前から思っていたけれど、夢幻ちゃん、本当にその制服似合わないわね」
「うるさい」
 自覚があるだけに腹が立つ。腹立たしげに言い捨てるが、ウリルは全く動じない。
「いってらっしゃい。気が向いたら顔出しに行くわ」
 ぱたぱたと手を振って、さっさと寝る体勢になってしまう。
 夢幻はそんなウリルの態度に呆れながらも、構っていられないとばかりに自分の部屋を後にした。

 コンスティエラ首都、セントラルシティ。
 その中央に位置する石造り五階建ての風格ある建物。それが、大陸警備機構本部である。
 本部の建物前に伸びる石畳の大通りは、朝方は出勤ラッシュの制服姿の機構員で混み合い、日中から夕方にかけては届け出や通報に訪れる一般市民や観光客でにぎわう。しかし、夢幻が本部の前に到着したのは出勤時間にはやや遅く、一般市民や観光客が訪れるにはやや早い時間であるため、大通りは閑散としていた。なので、本部の入口から出てくる制服姿の二人組を夢幻が気に留めたのも、相手が夢幻の姿に気が付いたのも別段不自然なことではない。
 かくして、二人組の片方が大きく手を振り、まっすぐに夢幻の方へ向かってくる。短く整えられた金髪に碧眼。機構員に多い典型的なコンスティエラの人種の容姿であるが、驚きと笑顔が入り交じったその表情は確かに夢幻がよく知る人物であった。

「ロキ」
 手を上げて、相手の名前を呼ぶ。
「夢幻!戻っていたのか」
 爽やかに返す男の名は、ロキシス・アーネルという。夢幻とは同い年であり、他所の国の人間であった夢幻がこの国にやってきた時に世話になった家族の息子である。夢幻にとってはもっとも親しい、家族にも近い親友だ。ロキと愛称で呼ぶのも、彼の家族を除けば夢幻くらいであろう。
「昨日の夜遅くにな。ロキは朝から外勤か?大変だな」
「お前ほど大変でもないさ。これから報告に行くんだろう?急がないとまた怒られるぞ」
「心配しなくても、どっちにしろ怒られる」
「確かに。お前の上官殿は、お前に対してはとことん容赦ないからな」
 夢幻の上司の気質を知っているロキシスは、冗談交じりに笑って話を続けた。
「今日の仕事が終わったら飲みにでも行こうぜ。楽しみがあったほうが、お互い仕事も頑張れるだろう」
「ああ、そうだな」
 夢幻も、笑顔で返す。
「じゃ、俺達もさっさと任務を終わらせてくる。また後でな」
 ロキシスはそう言うと、背後に待機していた連れに「いくぞ」と目配せを送る。
 そちらは、夢幻には見覚えのない人物であった。
 若い。癖のない金茶の髪に丸顔、大きな翡翠の瞳。元々童顔であるようだが、それを差し引いたとしてもロキシスや夢幻よりは年下だろう。やや緊張気味の表情や真新しい制服から察するに、この春に入ったばかりの新人機構員なのだろう。
 金茶の髪の若者は、夢幻に対して深々と一礼してから慌ててロキシスの背中を追いかけていった。
 初々しいな。
 そんなことを思いながら、ロキシス達と別れた夢幻は大陸警備機構本部の入口をくぐった。

 大陸警備機構本部は、入ってすぐに四層ぶち抜きの吹き抜けのロビーがあり、吹き抜けに沿うかたちで回廊状に階段がかけられている。
 夢幻はその長い階段を上り、四階一番西の部屋の前で足を止める。
「シャイア、入るぞ」
 軽くノックをして扉を開けると、中に広がっているのはごく一般的な執務室の光景。両サイドの壁を天井まで埋める、重量感溢れる本棚。中央にしつらえられた、華美すぎず質素すぎないソファーとローテーブルの応接セット。そして、奥の窓を背に大きめの執務机で書類を広げ、書き物をしていたこの部屋の主が手を止めて顔を上げた。
「夢幻、遅刻よ」
 開口一番、そっけなく言い放つ声は、高くて張りのある女性のものであった。
 きっちりとまとめられた髪は艶やかなブロンド。透き通った碧眼。夢幻の着ているものとは少し形が違う、細身のデザインをした女物の濃紺の制服。机を挟んでいるため見えないが、下は女性機構員のほとんどが着ているスカートではなく常にパンツスタイル。そして、襟元にはブロンズ色の階級章が付いている。
「それと、呼び捨てはやめなさいと何度言ったらわかるのかしら」
「悪かった。フィンディル警視」
 間髪入れず文句を言い続ける女性に、夢幻は素直に頭を下げた。

 彼女の名は、シャイア・フィンディル。夢幻の上司であり、この部署の責任者である。
 夢幻より三つ年上と、いくらこの部署の所属人員がシャイアと夢幻の二人だけという小さな部署であっても責任者に抜擢されるにはまだまだ年若い。しかし、責任者としての業務はもちろん、夢幻の旅のサポートもしっかりとこなすできる女性である。
 そのスタンスは、自分に厳しく、それ以上に夢幻に対して容赦なく厳しい。

「貴方のその言葉を何度聞いたことかしら。まあいいわ、今までの報告をしてちょうだい」
 シャイアは、表情一つ変えることなく先を促す。
 一見さらりと流されたように見えるが、この後に反省文という名の余計な仕事が増えたことは明らかである。これ以上余計な仕事を増やされたらたまらない。夢幻は速やかに用意してきた報告書を取り出し説明を始めた。

 数十分後。

 応接用のテーブルに書類を広げ、夢幻はうんざりしていた。
 一文を報告する度に駄目出しされ、書類の訂正作業を求められるのである。しかもその内容はほとんど作り直しに近く、追加資料の作成まで求められる。ちなみに、報告自体はまだ冒頭部分しか終わっていない。
 ある程度覚悟してはいたが、この調子ではいつ終わるのか全く予想がつかない。元々こういう作業は苦手な夢幻である。程よい座り心地のソファーや窓から差し込む陽の光の暖かさがどうにも眠気を誘う。

 だから、シャイアのその一言に夢幻は思わず立ち上がった。
「あら、そういえば資料を事務に貸したままだったわね。ちょっと返してもらいに」
「俺が行ってくる。下まで降りるのも面倒だろう」
 言葉を最後まで言わせず、申し出る。
「いつものことだから面倒でもないわ。それよりここだけど……って、夢幻!」
 シャイアが却下の意を表した時には、すでに夢幻の姿は扉の向こうに消えていた。扉がぱたんと軽い音を立てて閉まる。
「まったく……何の資料かもわからないでしょうに」
 シャイアは、呆れたように溜息をひとつ。今まで行っていた作業を中断し、テーブルに散乱している夢幻の報告書を手に取る。

 報告書に目を通しながら、今の夢幻の行動に対してどういう厳罰を与えようか考えていたのは言うまでもない。